都塚古墳「古代飛鳥の歴史解く発見」 石舞台もピラミッド状?

『13日、国内で例のない階段ピラミッド状の巨大方墳と判明した奈良県明日香村
 の都塚(みやこづか)古墳。被葬者は、古代朝廷の実力者・蘇我馬子(そがのう
 まこ)の父、稲目(いなめ)である可能性が高い。稲目は歴史上では馬子ほどメジ
 ャーではないが、天皇家との姻戚関係を確立、蘇我氏の隆盛の基盤をつくった人
 物だ。今回の調査によって、馬子の墓とされ、上部構造が不明だった石舞台古
 墳(7世紀前半)についても、同じ形だった可能性が出てきた』

『飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳
 の南東約400メートルに位置。近くからは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も
 見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀当時
 は、稲目(570年没)が実力者として活躍し、その後馬子、蝦夷(えみし)、入鹿
 (いるか)と3代続く権勢の基礎を築いた。

 関西大などは、蘇我氏の有力者の墓と推定。泉森皎(こう)・元橿原考古学研究
 所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所
 に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。古代飛鳥の歴史を解
 明する上で、大きな意味を持つ発見だ」と話している。

 日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。欽明
 天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉(みやけ)を選定
 するなど、欽明政治を支えた。

 その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)の2人の娘を欽明
 の妃に送り込む。2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明
 (ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の3天皇が誕生。天皇家との姻戚関係
 はその後馬子-蝦夷-入鹿と、計4代続く古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎ
 ないものにした』



皇室・天皇・王権が勃興したのは
 3世紀半ば。。
超大豪族がそれに
  匹敵する、場合により凌ぐ権勢を誇った


その最終ランナーともいえる実力者
 神話を超えた存在が蘇我氏といえる




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【蘇我氏・・・超大豪族・超権力者の肖像】<日本書紀・古事記>。。いわゆる≪日本神話を超越した存在の【代表格】!≫


蘇我氏
 武内宿禰を祖とする古代大豪族
 渡来人説が流布されたこともあるが
 現在では、その説を支持する人はいないそうだ

蘇我氏四代
 稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿

  この四代時代には、特に隆盛を極め
   論者によっては即位したという説すら

蘇我氏は大豪族の御他聞に漏れず
皇室と密接な閨閥関係。。というより
蘇我氏から天皇を輩出していた印象も


蘇我入鹿
 天下の聖者聖徳太子(神話上そうなっている)
 の子である山背大兄王一家を自殺に追い込んだ
 とされ、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の
 クーデターで蘇我入鹿を滅ぼした


蘇我氏は、これにて完全滅亡ではなく
本宗家が滅亡したに留まり。。
勢いは、完全に途絶えたが、蘇我氏自体は
平安時代初頭まで続いたといわれる


中臣鎌足の子が
 藤原不比等であり
神話編纂総責任者。。
 藤原氏の世はここから始まる


とすれば。。
皇室と共に藤原氏の栄華を褒め称えた
日本神話は、蘇我氏を矮小化する
ことにより成立


蘇我氏以前にも、皇室を凌ぐ権勢を誇った
 氏族は数々存在するが。。


蘇我氏・・・
 日本神話を超越した存在


蘇我氏の実態が明らかになれば
 神話が根底から覆る可能性もある



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日本神話というが。。完成は8世紀に
 ずれ込む代物であり、編纂総責任者は
  藤原不比等といわれ、その時代の感性
   藤原氏賛美の価値観に彩られる訳で。。


当時の実力者に躍り出た
 藤原氏の世を脅かしかねない

 
また、過去においても日本神話編纂
 に邪魔になる存在の代表蘇我氏排除
  は当然かも知れないともいえる




階段状の方墳に専門家「見たことない」 渡来文化影響か

『石を階段状に積み上げた様は、まるでピラミッド。奈良県明日香村の都塚(みやこ
 づか)古墳(6世紀後半ごろ)が、国内では類例のない構造を持つ大型方墳とわか
 った。研究者は、朝鮮半島の先進文化をもたらした渡来人との関わりが強い蘇我
 稲目(そがのいなめ=?~570)ら、大豪族の蘇我氏に注目する』



研究者とは誰か??知らないが
 藤原氏賛美で編纂の日本書紀
  それに基づいて、発掘資料を認定
   せざるを得ない考古学界及び歴史学界


神話の域から全く超越しないばかりか
 戦前戦後厳しく検閲を受け、監視された
  先輩たちの流れを引き継いだのか。。


保守的な。。硬直した見解の持ち主
 プロパガンダ・扇動を巻き起こす学者
  邪馬台国畿内説派等々が存在して
   よく吟味して解説に目を通すべきだ


考古学・歴史学には
 日本国内政治を超える
  プロパガンダが渦巻いている!



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≪第32代崇峻天皇の第三皇子。。出羽三山(羽黒修験)の開祖。。蜂子皇子≫【神話編纂前の時代。。皇室、豪族系譜が芋づる式に】



出来ることなら、観てみたい
 蜂子皇子の像が、一般公開か


羽黒修験の開祖
 崇峻天皇の皇子 蜂子皇子


小生も。。何かの肖像画で
 みた記憶があり。。

顔はみにくく、口は
 大きく耳の根元までさけ…


正にこの異形が、鮮明に
 印象に残っているが。。実は?
 

実際の像は文献に記載された
 様子とは違い、柔和な表情。。


ここで、ふと。。もしや
 この蜂子皇子もまつろわぬ。。
  勝者の歴史によって葬られた?
   という考えが浮かんできた


どういう訳か、蜂子皇子の父
 32代崇峻天皇というのは
  印象薄く。。虚構説もあるのか


崇峻天皇の異母兄は、
 第31代用明天皇。。つまり
  聖徳太子とは従兄弟同士にあたる


ただ。。このあたり、記紀神話編纂前
 の時代であり。。特に日本書紀は
  その編纂総責任者藤原不比等の思惑
   勝者の歴史であり。。極めて謎多く


聖徳太子(厩戸皇子)
 崇峻天皇。。そして蜂子皇子
  一応、公式の皇室系図上でも
   大豪族蘇我氏の強い影響下に
    あったと想像がつくのである


藤原不比等の思惑
 天武天皇から命ぜられ編纂
  皇室賛美というのは表向き


天武天皇崩御から数10年後
 の8世紀に完成しており。。
  その間、不比等の思惑で皇室
   よりも藤原氏賛美に変化の説


藤原氏賛美の手段として
 その最も大きな成果は。。
  蘇我氏の存在矮小・悪役化とも


矮小・悪役化して、あれだけの
 影響力残る皇室系図をみれば
  元はいったいどれほどだったのか


少なくとも、蘇我氏系ともいえる
 崇峻天皇。。蘇我系皇族といえる
  聖徳太子や蜂子皇子。。さらには


蜂子皇子より少し後の人
 修験道開祖とされる役小角
  いずれも虚構説が散見される


しかし、そう簡単には
 その存在が否定されたら
  大変なことになる訳である


全国的に有名な聖徳太子。。
 羽黒三山開山、蜂子皇子。。
  修験道開祖、神変大菩薩
   役小角。。信仰に深く関わり
    そして日本の天皇(大王)だ


この辺りの時代。。少し前か
 について、小生触れたことがある


欽明天皇は、第26代継体天皇の子
 つまりこの継体天皇が古代日本の
  新王朝という説が、大きくなっている

この継体天皇は謎多き人物
 前王朝の皇女を后として
  つまり政略結婚で、各豪族の
   信認を得ることに成功した

一方で、他の后も。。
 これが尾張氏出身の模様

その子である欽明天皇は
 前帝宣化天皇(異母兄)の
  皇女を皇后とする
   母は、尾張氏系か。。

次代、子の敏達天皇ともに
 妃に蘇我氏の皇女を娶り
  つまり欽明・敏達は蘇我氏
   に近い、また推古は欽明の
    皇女であり、母は蘇我氏系

日本の豪族は
 皇室を御輿に担ぎ
  しのぎを削りあい


葛城氏、平群氏、大伴氏
 そして物部氏、蘇我氏。。
  まだまだ更に古い氏族も
   多々存在した。。



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藤原氏賛美の日本神話を
 スタート地点としている古代史学界
  よって、藤原不比等が認めなかった
   氏族・豪族を忌み嫌い排除する傾向


蘇我氏に対する蔑称や矮小評価
 悪役説は全く以ってその典型である


今後の考古学・古代史は
 日本神話の枠を打ち破る発見
  新説が続々と登場することになろう


しかし、肝心の学者・研究者が
 日本神話にとらわれ過ぎていては
  せっかくの新説・真説も取り逃してしまう

藤原氏賛美から。。近代の皇国史観
 邪馬台国過大評価ほか。。数々のハードル
  を乗り越えて、真の古代に辿り着きたいもの

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