松尾大社の裏山に巨岩 磐座信仰に関連か

『京都市西京区の松尾大社が一昨年からの台風被害を受けて
 本殿裏山の樹木を伐採したところ、巨大な岩肌が現れた。
 松尾大社は近くの松尾山頂上付近にある巨岩「磐座(いわ
 くら)」が信仰を集め、その神霊をまつる社殿として飛鳥
 時代に山のふもとに建てられたとされる。専門家は「創建
 場所として磐座と似た巨岩のそばを選んだのではないか」
 とみる』

『伐採の過程で巨大な岩肌があらわになった。竹内直道禰宜
 (57)は「なぜこんな危険な山の真下に社殿を構えたの
 か、以前から不思議だった」と前置きし「神様を招く場と
 して、これほどふさわしい場所はなかったかもしれない」
 と語る。
 松尾大社によると、社殿が建てられる以前の太古から、松
 尾山頂上近くの磐座は祭神が降臨した場所としてあがめら
 れていた。後に大陸から渡来した有力豪族の秦氏が住み、
 松尾山の神を氏神として仰ぐようになった。701(大宝
 1)年の勅命で今の場所に社殿が建設され、神霊を磐座か
 ら社殿に移したとされる。
 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「大変興味深い。
 本殿の場所を決める際に巨岩を神聖なよりどころとした可
 能性が高い」と指摘した上で、「あくまで山頂の磐座が信
 仰対象なので、年月とともに麓の岩が土で覆われても放置
 したのではないか」と話す』



京都市西京区松尾大社
 京都屈指の大社・古社


古代。。地域を豪族が支配する
 地域の信仰対象として、磐座が
  そして、豪族の祖先・一族が
   葬られた墳墓。。古墳が存在


磐座。。神社の起源・前身
 とする説が根強く存在している


小生。。同じく京都の
 石清水八幡宮で述べたが
  更にハッキリ典型例が見つかった




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≪京都八幡市。。石清水八幡宮近くの今里遺跡≫<今も残る隅田墓地はその名残り>【日本の社会構造形成プロセスを想像させる】 


八幡の今里遺跡 中世から続く墓地と判明 平安末期の骨壺見つかる 京都

『八幡市教委は13日、中世を中心とした集落跡とみていた今里遺跡を発
 掘調査した結果、平安時代末期の蔵骨器(骨壺)が発掘され、同時期か
 ら今に続く墓地だったことがわかったと発表した。石組みの火葬炉など
 も発掘され、室町から安土桃山時代にかけて急速に火葬が増えた様子も
 うかがえた。

 今里遺跡は、木津川の河川敷に近く、同市下奈良隅田(すみだ)に今も
 ある隅田墓地周辺に広がる。かつての調査結果から中世を中心とした集
 落跡とみられ、隅田墓地が遡るのは江戸時代までとみられていたが、市
 道建設に伴って発掘した結果、平安時代末期に遡る墓地とわかった。

 骨壺の発掘場所から10メートルほど離れた場所には、石組みの火葬炉
 がみつかった。南北1・5メートル、東西0・9メートル、深さ0・6
 メートルで、床面には平石が敷き詰められ、側壁には石塔の台座などが
 石組みに転用されていた。

 石組みの内部は火で赤褐色に変色しており、多くの火葬骨片も見つか
 った。室町時代後半に流通し、永楽通宝など三途の川の渡し賃とされた
 六道銭などが出土し、室町時代末期から安土桃山時代初期まで使われた
 とみられる。

 また、周辺からは一度しか使わない火葬土坑が15カ所で見つかった。
 いずれも室町時代前半以降のもので、同時期から広まった火葬の風習が
 室町時代末期には恒久的な火葬炉が必要となるほど広まっていたことを
 示した。

 中世の墓に詳しい元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川(さがわ)真一
 研究部長は「大阪などでも同時期の恒久的な火葬炉がみられるが、石組
 みのない簡素なもの。今里遺跡の炉はものすごく立派で、きわめて珍
 しい」と話している』



今里遺跡
 京都府八幡市(やわたし)
  近隣の長岡京市にも
   同じ名の遺跡があるようだ


今里遺跡は墓地遺跡
 隣接するの隅田墓地は
  その名残りとして今も
   存在しているとのこと
   

なぜ、この遺跡が目に付いたか
 八幡市といえば、有名な八幡さん
  石清水八幡宮が鎮座している
   旧称男山八幡宮。。八幡市男山


昔、わざわざ調べて参拝した
 懐かしい記憶が蘇ってきたからだ

八幡市は、日本全国に存在する
 大規模神社寺院の周辺に形成された
  町。。すなわち門前町として発展した


石清水八幡宮。。
 創建は、平安時代9世紀後半
  八幡宮総本社九州の宇佐神宮
   から勧請されたのがその始まり


日本の神社
 古いものでも平安遷都以前
  の奈良時代がせいぜいであり
   飛鳥時代まで遡れるのは
    稀な部類ではないだろうか


したがって、石清水八幡宮は
 相当古い社に該当するはずであり


日本神話とされる記紀。。
 日本書紀などに記載される
  社もあるようだが。。

そもそも日本神話自体
 8世紀完成という代物


日本の神社は、神話の神々
 を祭神とする系列に整備された
  神社庁管轄の文化施設である


しかし、日本書記が藤原不比等
 が編纂総責任者だというが
  また、日本神話が皇室賞賛と
   みせかけての藤原氏賞賛の神話
    編纂が不比等の野望との説もある


これに照らし合わせれば
 その神々に沿った祭神を擁する
  日本の神社も。。一説によれば
   8世紀ぐらいまでに多く存在した
    ともいわれる原初・原始神社
     

その当初の姿から
 神の塗り替え・神隠しにより
  長期間のうちに再編成された
   ものではないかという仮説が
    成り立つ可能性が充分ある訳だ
 
    
神社の起源。。今なお謎が多いが
 神聖な山、大木・巨岩。。磐座
  このような祈りの場、ここに社が
   これを原初・原始神社とする説が
  

もうひとつ、有力な説として
 自然物である山や大木、巨岩

それらと密接な関係を持って存在して
 いるのが、日本列島に無数の古墳群
  皇室や豪族の祖神・祖先・守護神の墓
   これが大小様々な古墳であるが。。


峰々山々。。に密接に絡み
 存在する皇室・豪族の祖先墓である
  古墳群は、大量の人々の労働力による


大自然に宿る神々・精霊と一体化
 させて存在した自らの祖先墓。。古墳


だとすれば。。各地域を支配した
 豪族層が創建したともされる原始神社
  自らの祖先。。勢力の守護神を祀った
   はずなのであろうと想像出来るが
    

原始神社は、古墳の周辺に創建。。
 と同時に地域支配の統合の象徴とされ
  たはずなのであり、その後。。
   祭神や形を変え、また勧請分霊を重ねて
    全国各地無数に点在している
     現在の神社として存続したといえる



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松尾大社

小生も参拝したことがある
 京都市中心部とは違った
  落ち着いた雰囲気の社である


当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座と
される巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松
尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』
に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛
野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂され
たころには有力な神とされていたことがわかる。

大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在
地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕
させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神
職を務めた
              (ウィキペディア)



豪族秦氏一族が、松尾山の
 巨岩を磐座として崇めたのか
  それとも、磐座に指定したのか


松尾山付近には
 山田古墳・松尾谷古墳群・松尾
  大社西方古墳群・松尾山古墳群
   が従来存在し。。一括して
    松尾山古墳群とされ、厳然存在


そこに、創建されたのが
 松尾大社という訳である


大山咋神という
 日本神話の山の神


比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が
大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。
日吉大社には後に大物主神が勧請されており、
大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。
山王は二神の総称である。大物主神は西本宮
に、大山咋神は東本宮に祀られている。

そのほか、日枝神社(東京都千代田区)、
松尾大社(京都市西京区)および全国の
日枝神社、松尾神社で祀られている
           (ウィキペディア)


日本神話編纂。。もしくは
 その原典で登場した神なのか


秦氏の祖先が。。
 日本神話に、大山咋神と
  その名を変えて現代に語り
   継がれてきたといえるのだろう。。
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