解剖進む“卑弥呼の墓”、レーザー計測で「巨大な段築構造」と判明

『邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)との関連
 が指摘され、脚光を浴びている奈良県桜井市の巨大前方後円墳
 「箸墓(はしはか)古墳」(3世紀中頃~後半、全長約276
 メートル)は、初期ヤマト政権の都とされる纒向(まきむく)
 遺跡内にあり、政権トップの大王(だいおう)(天皇)の墓と
 もいわれる。三輪山の麓に悠然と存在し、現在は宮内庁管理の
 陵墓(りょうぼ)のため立ち入ることはできないが、昨年の研
 究者への公開や科学調査で、墳丘の姿が立体的な画像で復元さ
 れるなど、これまで謎に包まれた墳丘の様子が次第に明らかに
 なってきた』




ここ長らく、幅を利かせてきた
 邪馬台国畿内説であはあるが。。


箸墓古墳について
邪馬台国の女王・卑弥呼との関連

政権トップの大王(天皇)の墓とも

併記し出しているね。。(笑
 畿内説のトーンダウンを
  見逃す訳にはいかないのだよ




『その大工事ぶりは日本書紀崇神(すじん)紀に「墓は昼は人が
 造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った」と記述さ
 れる。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には卑弥呼の死後、「大
 いに冢(ちょう)をつくる」と書かれ、その冢が箸墓ではない
 かと想像されている。

 箸墓周辺では、これまでに計19回の調査が行われ、平成6~
 7年には前方部北側のすそ部分で葺石(ふきいし)が出土。1
 0年には周濠(しゅうごう)を越えて墳丘に渡るための渡り堤
 が見つかったほか、周濠の外側に外堤(がいてい)があったこ
 とも確認されている。

 特別展を企画した桜井市教委の福辻淳・文化財課主任は「箸墓は
 当時の最先端のスタイルで造られたと思う。それまでの古墳と比
 べて隔絶した大きさで、大きなインパクトがあったに違いない」
 と話す』



奈良県桜井市
 箸墓古墳 巨大前方後円墳 
  3世紀半ば~後半築造推定
   全長276mとも280mとも
    最近、さらに巨大になる見込み
    との指摘もあり、300mに達する
     可能性が出てきているようだ


皮肉にも。。その巨大さが
 邪馬台国卑弥呼墓の可能性を
  より否定してしまっている訳で
 


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【纒向遺跡は邪馬台国にあらず!ヤマト王権=大和朝廷発祥の地だ!】≪歴史・考古学界にプロパガンダが張り巡らされている≫

奈良県桜井市の
 大集落遺跡 纒向遺跡

歴史・考古学界に
纒向遺跡は邪馬台国である
 という壮絶なプロパガンダ
  が張り巡らされているようだ


プロパガンダは、政治・マスコミ
 特有のものではなかったのである


誰によるプロパガンダか。。
 邪馬台国畿内説を唱える
  考古学・歴史学者群である


邪馬台国とはいったいどこなのか
 九州説と畿内説が激しく論争
  それは百数十年に及ぶが結論出ず


小生。。邪馬台国が
 九州なのか畿内なのか
  さほど興味は無い。。   

場合によれば、中国・朝鮮半島
 の可能性もあるという学説も
  目にしたことがあるぐらいだ


小生の感覚・知識による
 見解は何度も述べている

纒向遺跡は
 ヤマト王権発祥の地だ


小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!
という見解を
   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた


纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓

  という説の登場により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m


日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された

との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造

との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者

それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い



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邪馬台国は、ヤマト=畿内
 ではなく。。さらに日本でもない
  可能性があるのは以前から言っている




『箸墓の考古資料などを一堂に集め、市立埋蔵文化財センターで
 開催された特別展では、宮内庁が墳丘上で採取した土器や埴輪
 が注目を集めた。特に吉備(きび)地方(現在の岡山県)の影
 響を受けて作られた可能性がある資料が多いためだ。

 宮内庁資料は計82点で、その中に「特殊器台(きだい)」
 「特殊器台形埴輪」「特殊壺」と呼ばれる吉備がルーツと考え
 られる遺物がある。特殊器台は赤色の大型器台。形は円筒形状
 で、表面の渦巻き状の文様に特徴があり、上に特殊壺をのせる。
 また特殊器台形埴輪には三角形と巴形の透かしがみられる。

 同じタイプの遺物は、日本最大級の墳丘墓・楯築(たてつき)
 遺跡(倉敷市)や、宮山遺跡(総社市)、都月坂1号墳(岡山
 市)など岡山県内で数多く出土している。箸墓の展示資料はい
 ずれも破片だが、岡山県内では高さ1メートル以上の特殊器台
 も確認されている』




纒向遺跡は、邪馬台国にあらず
 箸墓古墳は、卑弥呼墓にあらず


また、ヤマト王権も
 力で樹立され、勃興したのではなく
  吉備・出雲・越・伊勢・東海
   など強国に御輿のように
    担がれ、擁立された王権と思われ


【弥生時代】<邪馬台国論争が邪魔する歴史究明>≪日本列島内の力関係・主導権争い≫

鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった

つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。

    また、その他生活文明

諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか


そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ


そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。
  

そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか



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『初期ヤマト政権の大王は近畿や中国、九州など各地の勢力によっ
 て共立されたと考える桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長
 (考古学)は「箸墓を築造する背景に吉備の人たちがいたことは
 間違いない。初期ヤマト政権の中で、吉備の集団が政治的、経済
 的、祭祀的に、何らかの関与をしていた可能性がある」と指摘す
 る。

 もともと吉備では、豊かな農業生産を背景に、巨大勢力が台頭した
 とされる。弥生時代後期から巨大な墳丘墓(ふんきゅうぼ)が造ら
 れるようになり、供献具(きょうけんぐ)として置かれていた器台
 なども大型化したとされる。

 箸墓がある纒向遺跡の中でも、東海や山陰、北陸系の土器とともに、
 吉備系の土器が数多く見つかっており、多くの吉備の人たちが首都
 である纒向に来ていたことが想像される。

 寺沢所長は「当時、吉備は大きな力を持っていた。被葬者である大
 王を直接支えた人物の中に、吉備の人がいた可能性がある」として
 いる』



桜井市纒向学研究センター寺沢薫所長
 あの森浩一教授の弟子であり
  著名な考古学者でもあるが。。
   この纒向学研究センターが数年前
    設立されたのを機に、畿内説が
     徐々にトーンダウンに向かった
      かも知れないようなのである



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邪馬台国

女王卑弥呼の国

日本の礎となった邪馬台国



長らくその邪馬台国の場所について
九州説 畿内説
が真っ向から対立

一時は九州説で決着したかにみえ

吉野ヶ里遺跡の発見で止めを刺した格好


高木彬光の小説『邪馬台国の謎』でも
九州説をとって決着させていたが



それが
奈良 桜井の纏向遺跡の発見で、
 俄然畿内説が息を吹き返し

箸墓古墳が卑弥呼の墓だとかで

畿内説で決まり!!という近年



小生。。。

纏向遺跡や箸墓古墳を

邪馬台国だけに縛り付けてしまって
良いのか、
と素人ながら思ってはいた。


そんな中
現在、ある古代中国原典専門
40年のベテランが著した
書物を読んでいる

その著者が言うには
”邪馬台国”は日本に在らず

日本の歴史界が魏志倭人伝
 の訳を間違えている!!


つまり倭に至る出発点の
 場所から間違えている!!

ということらしい。。。


その本たるや
最初から3分の2ぐらいは、
中国の省や郡の場所がズラリ


さすがに、退屈で
 殆ど全て読み飛ばした

そして、
邪馬台国=倭=倭国 
は 中国もしくは朝鮮半島の根元

現在の中華人民共和国内
か北朝鮮内
だという。。。


あまりきいた事が無い説

このまま読み進んでいて良いのか!

単なる異端者の説ではないのか!


と思っている時に


司馬遼太郎の短編集を買ってしまった

そこで見たものは!


司馬遼太郎は
「倭とか倭国、倭人は中国の
  とある場所であり。。
   倭人とか倭とか呼ばれた場所
    が中国内に存在していた」
らしい

と言っている

既に1970年代に、である


司馬遼太郎が言ったからではなく、
そういう説が古来存在していた訳である



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と。。このように
 邪馬台国は日本ではない
  可能性すら漂わせている


ではなぜ。。邪馬台国・卑弥呼
 争奪戦になってしまったのだろうか



小生。。以前にも述べた


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邪馬台国
3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ

女王といわれる卑弥呼
人名なのか、役職名なのか。。

親魏倭王
中国の三国時代に華北を支配した王朝 魏(ぎ)
の属国女性首長の称号か

倭国(わこく)
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、
当時日本列島にあった政治勢力、
国家を指して倭国という字をあてた


1世紀半ば(57年)
北部九州(博多湾沿岸)にあった
とされる倭奴国の首長が、
後漢の光武帝から倭奴国王に冊封され、
金印(委奴国王印)の賜与を受ける


2世紀初頭(107年)には、
倭国王帥升が後漢へ遣使し、
 生口(奴隷)を160人献呈し・・・。



57年倭奴国王 

107年倭国王帥升 

そして卑弥呼が親魏倭王


それぞれどういう関係・位置づけになるのか


帥升から、約100年後の

卑弥呼の邪馬台国は畿内で


57年。。倭奴国王 
107年。。倭国王帥升

は北部九州説が強いという

何しろ、資料が少なく。。資料の読み解き方が定まっていないのが
紛争・論争の原因


1世紀末から2世紀初頭。。。

倭国をある程度代表する
 有力政治勢力(国)が生まれた
  という説の一方、日本列島各地の
   豪族がそれぞれ倭国王を称していた
    可能性も否定出来ないのだという。。


列島全体が”邪馬台国”でもなく
 卑弥呼が”列島の女王”だという
  訳でもないはずに違いないのだが


混沌としたこの時代。。日本近辺で

邪馬台国 卑弥呼 という二つの言葉が

突出して有名になってしまったお陰で


”九州”と”畿内”が取り合いをしている



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超古代。。邪馬台国・卑弥呼
 ヤマト以前の日本では
  これ以外に世界に誇れる
   有名・著名が存在しない


これが原因に違いない
 邪馬台国も卑弥呼も
  どの地域に関連しようと
   さほど誇れないにも拘らず




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