古代日本人は懸命に模倣した…未知のルートで「ジパング」に渡った「銅剣」

『琵琶湖北西岸にある滋賀県高島市の上御殿遺跡(かみごてんいせき)で、弥生
 中期-古墳時代初め(紀元前4世紀~紀元3世紀)の銅剣の鋳型が見つかった
 ことが昨年発表され、考古学界に大きな話題を呼んだ。剣は理髪店のはさみの
 ようなユニークな形で、中国・内モンゴルの遊牧民が使った「オルドス式短剣
 」とそっくりだった。銅剣の伝来ルートは、朝鮮半島経由で九州北部へという
 のがこれまでの定説だったが、オルドス式は朝鮮半島にも出土例がなく、国内
 ではもちろん初めて。このため、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた
 可能性が浮上した。はたして直線距離で900キロもの日本海を、当時の人々
 は渡ることができたのだろうか』



小生の理解では。。北部九州は
 確かに国内先進国だったが。。
  

主導権は、弥生時代のある時期
 から。。
吉備・出雲をはじめと
  して北陸地方にも移り始めており

   大陸から直接技術や材料を導入する
    力を持ち始めていたと漠然と感じて
     訳なのであるが。。


滋賀県。。近江なら
 その力を持っていたことは
  充分に有り得る!!と考える




『弥生時代中期以降の船は、丸木舟に波切(なみきり)板や舷側(げんそく)板を
 備えて強固にした準構造船とされる。

 「古代人は、自然の力を実にうまく利用した。風待ちや潮待ちをしっかりすれば、
 日本まで数日で着くのではないか」と石野さん。日本海の真ん中を突っ切るので
 はなく、朝鮮半島東方沖の潮流にのれば、山陰から能登半島一帯にたどり着くと
 指摘し、「現在でもエンジンを装備していない北朝鮮の小舟が日本海岸に漂着す
 ることを考えると、十分あり得る」と話す。

 大阪府立弥生文化博物館(和泉市)副館長の秋山浩三さんも「朝鮮半島の東方沖
 なら、難破することも少ないのでは」と、日本海を渡るのは可能だったとの見方
 だ。

 ただし、水や食糧補給のための港は必要で、石野さんは「定期ルートではなかっ
 た」と分析。調査担当の滋賀県文化財保護協会副主幹、中村健二さんも「日本海
 を直接渡るのは、やはり難しい。朝鮮半島ルートのように一般化せず、特殊なも
 のだった」と推測する。

 ■近畿でも北部九州でもなく…意外な先進地

 半島経由の定期ルートと異なり、特異な日本海ルートが存在していたことは、各地
 の発掘結果も裏付ける。山陰から東北の日本海側には、弥生時代の中心地だった北
 部九州や近畿とは別に、大陸からもたらされた遺物の出土が意外に多い。

 邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が魏に朝貢したとされる「景
 初三年」の年号が記された銅鏡は、島根県雲南市の神原神社古墳で出土。長さ1メ
 ートル前後もある中国製の大刀「五尺刀」も、弥生末-古墳時代初めのものが福井
 や鳥取などで見つかっている。

 石野さんは「20メートル規模の小さい古墳に多く、日本海側の中小の勢力が大陸
 から入手したのではないか」と話す』



ならば。。邪馬台国も中小の勢力
 に入ることにはならないかね?

邪馬台国が日本列島を代表する
 首都であったという解釈が間違っている




『琵琶湖は、日本海と瀬戸内海、東国と大和を結ぶ交通の要衝だった。日本人が培った
 進取の気風は、文明の十字路ともいえる地に暮らした古代近江人に原点があったのか
 もしれない。

 「日本海側は古代から、とても元気だった」というのは、明治大学名誉教授の大塚初
 重さん。「弥生や古墳時代の文化や技術は近畿が中心で、地方は遅れて入ってくると
 教えられたが、そうではないことを改めて示した」と今回の発見の意義を語る。

 「いくら偉大な学説でも、新たな発見があるとその瞬間から見直さないといけない。
 これが考古学の恐ろしさなんです」。2枚の鋳型は、大和や北部九州を中心に考えが
 ちな考古学に大きな一石を投じた』




全くその通り!邪馬台国畿内説学者
 幅を利かせる考古学・史学界主流派
  は、ヤマトと九州中心で考え過ぎである




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【弥生時代】<邪馬台国論争が邪魔する歴史究明>≪日本列島内の力関係・主導権争い≫


弥生時代。。
 縄文式土器と弥生式土器
  この弥生式から弥生時代
   これが従来の時代区分だった


しかし、
この土器による区分ではなく
 水稲農耕による食料生産
  これが定着したとされる時代
    

これを弥生時代、とする考え方
 ここへ移行しつつあるらしい


稲作技術は、前代縄文時代
 には日本列島にもたらされ
  ていたらしいことが判明


水稲農耕も大陸・半島
 から導入され、列島内で
  工夫・改良という流れだろう


それにより、弥生時代
 前期・中期・後期の3期から


早期・前期・中期・後期の4期
 に区分する説が主流になりつつある


弥生時代の始まりも
 紀元前3世紀前後から


紀元前5世紀近くにまで
 遡れるのかも知れない





『集落の最も内側にある大環濠(幅10メートル)の下層から1988年
 に出土した土器を整理中に見つけた。甕(かめ)の口縁部の一部で、
 縦5・3センチ、横約13センチ、厚さ6~8ミリ。元の大きさは口径
 36センチ、高さ40センチ強とみられる。口縁部は赤い彩色が施され
 、外側に向けて直角に折り曲げられていた。

 こうした特徴が北部九州・筑前地域の「須玖(すぐ)式」土器と一致
 する。筑前地域から運ばれてきた可能性が高く、同時に出土した地元産
 の土器による推定年代も北部九州の土器の年代と矛盾しなかった』





鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった


つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。
    また、その他生活文明


諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか


そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ


そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。  


そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか




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邪馬台国を纏向遺跡や箸墓古墳と
 関連付けてしか考えられない畿内説学者
  考古学で幅を利かせる主流派の
   考え方や解釈では。。
まず到底
    この新しい事実を受け止めることは
     不可能であり。。誤った判断が
      横行しないことを祈るばかりである
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