伊勢神宮で「神武天皇祭遙拝」-神武天皇崩御の日に伊勢でも祈り /三重

『皇紀2674(平成26)年旧暦の3月11日にあたる4月3日、伊勢神宮
 内宮(ないくう)で「神武天皇祭遙拝」が執り行われた。(伊勢
 志摩経済新聞)』

『古事記、日本書紀に登場し日本の初代天皇とする神武天皇が崩御
 された日(神武天皇76年)に、宮中の皇霊殿で「神武天皇祭」が
 行われるにあたり、伊勢神宮でも遙拝式を行う。

 2月11日の「建国記念の日」は神武天皇が即位した日として国民の
 祝日になっているが、かつて「神武天皇祭」も国民の祝日の一つ
 だった。式年遷宮で新しくなった伊勢神宮への参拝のために先月
 25日~28日まで伊勢を訪問した天皇陛下は神武天皇から数えて12
 5代目にあたる。

 この日、鷹司尚武大宮司をはじめ高城治延少宮司ほか神職ら50人
 以上が五十鈴川に向かって八度拝を行い、神武天皇への深い祈り
 を捧げた』



日本国民として、皇室を敬う
 気持ちをもつのが当然である


小生も、皇室。。その祖先
 を祀る伊勢神宮は好きな場所


しかし、学校でも
 日本神話は教えていないとか


旧皇族家の末裔竹田先生でも
 日本勃興の起源が本当だとは
  思っていないようなのである



「皇室のきょうかしょ」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/
koshitsu/koshitsu01.html


小生も。。この辺りの日本神話
 古代史の謎には、興味を持っている



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≪日本神話を忠実に捉え過ぎては迷路に入り込むが。。≫【ヤマトタケル・・・諸国の王の合成。。あるべき皇族の姿か】


各地に今も残る「ヤマトタケル伝説」 地名と伝承の“興味深さ”

『昨年は、ほぼ60年に1度の出雲大社の遷宮が5月に、20年ごとの伊
 勢神宮の式年遷宮も10月に行われた節目の年だった。もう一つ、神話
 に根ざした神事が5月8日に皇室の三種の神器「草薙の剣(くさなぎの
 つるぎ)」を祭る熱田神宮(名古屋市熱田区)でも営まれた。景行天皇
 43(113)年、九州や東国を平定したヤマトタケルノミコトの草薙
 の剣が熱田神宮に祭られて1900年となるのを記念した「創祀(そ
 うし)千九百年大祭」だ。ヤマト政権による列島統治を示すヤマトタケ
 ル伝説は、各地に伝承や地名が残り、今も篤く信仰されている』



日本神話の英雄
 ヤマトタケル。。日本武尊。。

  日本神話は、忠実に捉え過ぎては
   迷路に入り込む訳で。。。


考古学的には、ヤマト創建は
 3世紀半ばから後半とされる

  しかし、神話上の神武天皇即位
   紀元前660年。。縄文時代に
    食い込んでしまうのであるから



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初代天皇だとされる神武天皇
 即位年や在位年数。。崩御年齢
  はともかく、
建国はこの方によって
   為されたと。。
政府の公式見解だろう


ただ。。

『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績
 (旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の
 天皇。。

 現代の研究ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された系譜
 であるとする見解が有力だが、実在説も根強い』
                (参考ウィキペディア)

これを欠史八代。。つまり
 第2代~第9代天皇は実在せず
  架空の存在であり。。
かつ初代
   とされる神武天皇と第10代
    崇神天皇は同一人物であり。。


崇神天皇こそが日本の初代天皇
 であると、断定したような歴史学界
  の姿勢であり、見解が主流らしいが


小生の想像。。思いとして
 初代の神武天皇らしき人物  

そして、第2代~9代の欠史八代
 とされる各天皇も全てかどうか
  は不明ながら、実在した!と考えたい


歴史学界の姿勢と見解は
 記述が無い、少ない、曖昧
  だから実在性無し。。と切り捨て

   は、邪馬台国論争と同じで極めて
    乱暴であり。。かつ不誠実なのだ


だから、日本に存在したかどうか
 も怪しいと思われる邪馬台国の所在地

  が九州か、畿内かで大議論になる訳で


邪馬台国論争は百年論争
 九州説が佐賀の吉野ヶ里遺跡で
  圧倒的有利だったのであるが。。


近年、奈良纏向遺跡・箸墓古墳での
 発見により、俄然畿内説が
  形勢逆転!勝負あったの様相だが
   しかし、ちょっと待った!!と言いたい



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【纒向遺跡は邪馬台国にあらず!ヤマト王権=大和朝廷発祥の地だ!】≪歴史・考古学界にプロパガンダが張り巡らされている≫

奈良県桜井市の
 大集落遺跡 纒向遺跡

歴史・考古学界に
纒向遺跡は邪馬台国である
 という壮絶なプロパガンダ
  が張り巡らされているようだ


プロパガンダは、政治・マスコミ
 特有のものではなかったのである


誰によるプロパガンダか。。
 邪馬台国畿内説を唱える
  考古学・歴史学者群である


邪馬台国とはいったいどこなのか
 九州説と畿内説が激しく論争
  それは百数十年に及ぶが結論出ず


小生。。邪馬台国が
 九州なのか畿内なのか
  さほど興味は無い。。   

場合によれば、中国・朝鮮半島
 の可能性もあるという学説も
  目にしたことがあるぐらいだ


小生の感覚・知識による
 見解は何度も述べている

纒向遺跡は
 ヤマト王権発祥の地だ


【邪馬台国は日本に非ず】《日本古代史最大のプロパガンダ》<女王卑弥呼の墓=箸墓古墳>説を・・・【全否定してみる】


小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!
という見解を
   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた


纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓

  という説の登場により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m


日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された

との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造

との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者

それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い



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奈良桜井の箸墓古墳は
 近年の調査で、全長280m
  を修正。。300mに及ぶ可能性


これだけで、卑弥呼の墓は誇張考慮
 100mほどなので、
畿内説主張は
  完全に崩壊しているといえる

   小生。。邪馬台国は日本にある
    とするならば。。まだ、九州説
     を採用すべきと考えている訳だ


いや、それ以上に北部九州から
 ヤマトに主導権が移る過程
  中国地方各地、兵庫県播州・但馬
   滋賀県、京都府。。邪馬台国に
    相応しい候補地は他に沢山ある
    

100年論争の邪馬台国論
 はまだしも。。日本神話は
  古事記712年日本書紀720年
   にそれぞれ完成。。
ざっと
    1300年間日本を支配している



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神武天皇
 紀元前660年即位
  しかし、実際どうなのか


ヤマト王権勃興が
 3世紀半ば、それ以降
  西暦270年~280年か


后・皇后は


神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人
いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、在地
豪族を懐柔しようとした。天照大神の子孫である神武天皇と媛蹈
鞴五十鈴媛命が結婚することで、天津神系と国津神系に分かれた
系譜がまた1つに統合されることになる
               (ウィキペディア)


日向。。九州
 で既に、后と子供。。


在地。。
 大和とされてはいるが
  媛蹈鞴五十鈴媛命の名から

   出雲出身豪族の娘という
    根強い説が存在する訳で。。


これだけでも、大和へ
 移動する前に。。吉備・出雲
  中国・山陰地方の強国が
   ヤマト王権勃興に関与して
    いた様も大いに想像膨らむ


欠史八代。。第2代~9代
 の各天皇の皇居・宮の推定地は
  奈良県御所市。。橿原市。。田原本町
   そして奈良市と各地転々としており
    各天皇は、宮殿界隈各地の有力者や
     大豪族の娘を妻として娶り
      ということが考えられる訳だ


なぜなら、ヤマト王権各天皇
 つまり大王・倭王は

  武力で日本列島蹂躙征服ではなく
   争い・戦を避け。。地元豪族と婚姻
    そして支援を受けての政権維持に努め

     また、各天皇が代々血縁関係にあったか
      どうかも極めて難解で、判然とせず


各在地。。ヤマト周辺各地域
 各地豪族層の代表者
  または豪族層からの
   推薦者・擁立者が順次・輪番で
    天皇位につまり即位していった
     との推定も成立する訳である。。


第10代崇神天皇は奈良桜井
 に宮を置いたという説があるが
  后・皇后は古事記と日本書紀で
   先代開化天皇の皇女であるとか
    開化天皇の兄の娘。つまり姪
     であるとか。。いずれにせよ


神武天皇と崇神天皇が
 同一人物であるという
  日本史学界主流派の見解
   に説得力が薄れるというもの


そして初代神武天皇に該当しそうな
 人物は、征服して即位ではなく
  吉備・出雲・北陸・近江・伊勢
   そして東海各強国の大豪族層
    特に吉備・出雲辺りには大いに
     気兼ねして気を遣う立場だった
      と考えられ。。あの気品溢れる


巨大な前方後円墳である
 箸墓古墳は、吉備・出雲の
  大王、古墳時代の治天の君
   または、それに近しい人物
    の墓と考える方が合点がいく
 

今後もこの件に関して
 更により一層の探究必要であるが。。




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