桜井・纒向遺跡 南北方向の溝跡も出土 奈良

『■300年間に4時期の居館存在か

 邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の時代にあたる新たな建
 物跡(3世紀前半)が見つかった纒向(まきむく)遺跡(桜井市)。市教委の
 調査では、遺跡中心部の発掘現場東端から3世紀後半~4世紀前半の南北方向
 の溝跡も出土した。卑弥呼以降の首長(王)の居館(きょかん)に伴う溝と推
 定される。これまでの調査結果と合わせ、遺跡の中心部には3世紀前半からの
 約300年間に4時期の首長の居館(宮殿施設)が存在した可能性が浮上して
 きた』


奈良県桜井市の
 大集落遺跡 纒向遺跡

歴史・考古学界に
纒向遺跡は邪馬台国である
 という壮絶なプロパガンダ
  が張り巡らされているようだ


プロパガンダは、政治・マスコミ
 特有のものではなかったのである




『市教委は、溝跡が直線的に伸びている特徴などから、卑弥呼の時代の後、宮殿
 エリアに造られた2番目の居館を囲む溝跡と推定している。

 また、宮殿エリアからは昨年2月の調査で、4世紀後半の居館を囲む周濠(し
 ゅうごう)跡が出土しているほか、5世紀末~6世紀初頭の居館の周濠と考え
 られる南北方向の石張溝(いしばりみぞ)も見つかっている。

 このため市教委は、宮殿エリアには3世紀前半~6世紀初頭の約300年間に
 、少なくとも4時期の首長の宮殿施設が存在した可能性があるとしている』



誰によるプロパガンダか。。
 邪馬台国畿内説を唱える
  考古学・歴史学者群である


邪馬台国とはいったいどこなのか
 九州説と畿内説が激しく論争
  それは百数十年に及ぶが結論出ず


小生。。邪馬台国が
 九州なのか畿内なのか
  さほど興味は無い。。   

場合によれば、中国・朝鮮半島
 の可能性もあるという学説も
  目にしたことがあるぐらいだ


小生の感覚・知識による
 見解は何度も述べている

纒向遺跡は
 ヤマト王権発祥の地だ



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【邪馬台国は日本に非ず】《日本古代史最大のプロパガンダ》<女王卑弥呼の墓=箸墓古墳>説を・・・【全否定してみる】


小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!
という見解を
   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた


纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓

  という説の登場により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m


日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された

との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造

との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者

それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い



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【弥生時代】<邪馬台国論争が邪魔する歴史究明>≪日本列島内の力関係・主導権争い≫

鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった

つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。

    また、その他生活文明

諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか


そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ


そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。
  

そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか


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纒向遺跡は、
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海の首長連合から
   御輿を担ぐように擁立の


ヤマト王権=いわゆる大和朝廷
 発祥の地である可能性の方が高い


ズバリ!歴史・考古学は
 日本の歩みを正確に世に
  教え示すことが重要な役割
   なのは、今更いうまでもない 


では、何故このような
 プロパガンダが罷り通るのか


弥生時代末期は九州
 そしてその後、吉備・出雲
  が強国として君臨し。。


その後擁立されたのが
 ヤマト王権であるとすれば
  全国制覇の端緒はずっと遅れる


しかし
 邪馬台国畿内説論者は
  いわゆる邪馬台国時代
   からヤマト王権勃興まで
    場所も権力も連続し

王権勃興直後から
 九州へも、そして全国へ
  権力の誇示・行使が。。
   という論調を展開する


現代皇室の祖とされる
 ヤマト王権を誇大拡大解釈
  し、それをゴリ押し気味だ


一方、それに異を唱えれば
 反皇室ともされかねない恐れ

  畿内説論者は、皇室の祖の
   巨大表現学説を味方につけ
    学界論戦を有利に進めている


何度でも言う
 邪馬台国は纒向遺跡
  とは別の場所にある


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