考古学では裏付けられぬ「神武東遷」…神武天皇はなぜ九州から大和へ

『「都の地を求めて東へ行こうと思う」。初代・神武天皇が高千穂(宮崎
 )から大和(奈良)へ向かった「神武東遷」。古事記で有名なこの神話
 を色鮮やかに描いたのが、洋画家の絹谷幸二・大阪芸大教授だ。天高く
 飛翔する神武天皇の作品は、新たな時代の幕開けを思わせる。一方、考
 古学的にアプローチすると、「東遷」ではなく大和から九州へ“西遷”
 のような流れがあったという。2月11日は神武天皇即位の日とされる
 紀元節を引き継いだ「建国記念の日」。節目の日を前に、国の成り立ち
 を考えてみた』



建国記念の日が近づき
 考古学界・古代史界にも
  キナ臭い動きが出て来た


日本神話で有名な
 初代神武天皇の東征


九州宮崎辺りから
 東へ凱旋。。ヤマト建国
  これは古事記だけじゃなく
   日本書紀にも見られるが。。


考古学的には
 東(ヤマト)から九州への
  西遷が起こっていたと言うが


これこそ、皇国史観・昭和維新
 建国記念の日ならではの摩訶不思議

邪馬台国畿内説・上方考古学者
 のプロパガンダ・扇動といえる





『白石氏は「弥生時代には北部九州が圧倒的に強く、畿内は後進地だった
 」と指摘。北部九州勢力は、大陸の先進技術に加え、朝鮮半島からは軍
 事や農業発展に不可欠な鉄資源も独占できたためだ。

 九州勢の“一極集中”を打破しようと手を結んだのが、畿内や吉備(
 岡山)などの勢力だった。弥生時代末の2世紀末、鉄の輸入ルート確保
 のため北部九州を制圧し、畿内を中心とする「邪馬台国連合」が成立。
 古墳時代には版図を関東・東北南部まで広げ、ヤマト政権に発展したと推
 測する』



大阪府立近つ飛鳥博物館
 の白石太一郎館長。。恐らく
  大学者に違いないと思われる

邪馬台国畿内説の
 グループに属するはず


小生もこの時代には
 強い興味を持っており
  以前から何度も述べた




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【弥生時代】<邪馬台国論争が邪魔する歴史究明>≪日本列島内の力関係・主導権争い≫

鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった


つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。
    また、その他生活文明


諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか



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ただ。。この邪馬台国連合
 というのがよく解らないが(笑)




『■土器が示す東遷の“矛盾”

 ここで問題となるのが、「神武東遷」と考古学との関係だ。神武天皇は
 日向から福岡、瀬戸内を経て奈良・橿原宮で即位したと古事記は記す。
 これは、日本の政治・文化の中心が弥生時代の九州から、古墳時代に畿
 内へ移ったという考古学的事実と合致するようにみえる。

 しかし、弥生から古墳時代への転換点にあたる邪馬台国の時代をみると
 、そう単純にはいかない。遺跡を掘れば必ず見つかる土器こそが、カギ
 を握る。日常生活に欠かせない土器の分布状況は、そのまま人の動きを
 反映しているためだ。

 考古学者の地道な研究の結果、3世紀前半には、畿内や吉備地方などで
 作られた土器が北部九州で数多く出土する一方、北部九州の土器の畿内
 などでの出土例は少ないことが分かった。畿内や瀬戸内の人々が北部九
 州へ次々と渡ったのに対し、北部九州から畿内への大移動はなかったこ
 とになる。

 「東遷説に従えば、九州の土器が大量に畿内へ入るはずが、逆になって
 いる。神武東遷は考古学的に認めがたい」と白石氏は話す』



土器だけで、ヤマトから
 西方。。西遷が行われた
  ということが無理が有り過ぎ


鉄器・青銅器・土器
 そして何よりも古墳・墳墓
  この文化を見ないと
   絶対に何も言えないはずだ


ごく一部の材料だけで
 一事が万事。。正に扇動だ


ヤマトから全国への
 権力の行使。。制覇
  という現象はずっと後世
   になってからである!!



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そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ

そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。  


そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか




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神武東征。。考古学上では
 宮崎ではなく、北部九州となり
  神話と考古学では違いがあるが


むしろ、これは当たり前で
 神話編纂は、7世紀。。完成は
  8世紀に食い込んでしまう訳で


日本書紀や古事記の元資料も
 せいぜい、6世紀頃に編纂だろう


ヤマト勃興以前の3世紀や2世紀
 解るはずなどないのが普通であり
  日本書紀は知っていた!などと
   歴史作家がよく言うが知るはずない


恐らく、ヤマト王権を御輿のように
 担いだ大豪族層の祖先が。。
  九州や吉備・出雲・東海地方
   の出身であった可能性で、その伝承


そして、西方から続々と
 または、東海や北陸からの
  実力家系末裔である大豪族層
   やその子孫がヤマト近辺に居住


そういう空気が、語り継がれ
 神話編纂に継承・影響を与えたのでは。。


今回は、小生の扇動打破
 反撃第一弾ということで
  簡単ではあるがこのへんで
   
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