「高野聖」の所業…高野街道を造った「宗教者」たちの“堕落のあと”

『歩道橋は2つのショッピングビルと駅舎をつないでいる。駅舎のなかは
 、南海と近鉄の河内長野駅が、なかよく並んでいる。南海のほうが乗降
 客が多いのは、近鉄が終点の駅なのにたいし、南海は和歌山から高野山
 上までの路線が延びているからであろう。

 歩道橋上から眺めると、駅前は広いロータリーになっている。道が幾重
 にも交差しているので、高野街道がどの道なのかよく分からない。と言
 っても、高野街道はひとつの街道ではない。

 東高野街道にはじまり、西高野、中高野、下高野と4つもある。有名な
 のは、京から河内国をつらぬく「東」である。八幡から、国府、古市、
 富田林を経て河内長野に入る。

 「西」は堺から、「中」は大阪・平野から、「下」は四天王寺から、と
 いう。なぜこんなに多くの街道ができたのかというと、中世以降、高野
 山参詣がさかんになったからだ。

 ロータリーをおりると、「この付近、東と西の高野街道合流地点」とい
 う碑が立ち、かたわらには「東」「中」「西」の街道のルート図がつい
 ていた。このうち「中」は、途中で「西」と合流した。

 ショッピングビルの裏手に行くと、いかにも江戸期に造られたような庄
 屋ふうの建物や酒蔵が、いくつかのこっていた。どこにも杉玉がぶらさ
 がっている。

 かつてこの付近から三日市町駅にかけての街道沿いには、旅籠(はたご
 )や宿、茶屋などが建ちならんでいた。堺や大阪、京などに向かう街道
 の起点になっていたからだ。

 高野山への参詣は、中世における熊野詣でや、江戸期に爆発的な人気を
 集めたお伊勢詣でほどの人気は集めなかった。遠いうえ、峻険な山道を
 登るのはきつすぎたのであろう』



山上仏教都市
 高野山。。
  小生。。何度も行った


もうちょっと、道路が広ければ
 もうちょっと、鉄道網が整備されれば
  しかし、なにぶん交通網整備以前

   クルマ社会以前に拓けてしまった
    それが高野山真言宗総本山である





『伝教大師最澄が開いた比叡山は、法然や親鸞、日蓮など、すぐれた宗教
 者を生んだ。だが弘法大師空海の高野山からは、根来寺を開いた覚鑁
 (かくばん)上人くらいしか生まれなかった。

 司馬遼太郎は空海の教えが完璧に体系化されていたため、「後進」が育
 たなかったのであろうと述べた。そのかわりにバッコしはじめたのが、
 高野聖という勧進聖である。

 勧進とは、平たく言えば、高野山を維持、運営するための金集めのこと
 である。伽藍の建設、修復、整備のほか、勧化、唱道、納骨などの宗教
 活動もおこなった。西行もそのひとりであった。

 民俗学者、五来重の名著『高野聖』によれば、奇妙なことに、高野聖は
 空海の真言宗ではなく、もっぱら念仏宗の信者だった。室町期には、高
 野山の全山が、踊り念仏で知られる一遍上人の時宗に席巻されてしまっ
 た』




小生も。。十数年前
 秀才・エリート最澄が
  拓いた比叡山延暦寺が


「日本仏教の母山」として

融通念仏宗の開祖良忍
浄土宗の開祖法然
浄土真宗の開祖親鸞
臨済宗の開祖栄西
曹洞宗の開祖道元
日蓮宗の開祖日蓮


など、新仏教の開祖や、
 日本仏教史上著名な僧の
  多くが若い日に比叡山で
   修行し、旅立ったのを知り


何故、空海の真言宗から
 一宗を興すような高僧・大僧
  が出現しなかったのだろうか

と疑問を持ったものである

しかし、今日では
 中国の唐から密教の概念
  曼荼羅・真言・梵字・阿字観


空海以前から、日本に
 伝来していたものも含め
  やはり、体系立てて普及
   させたのは、空海以外考えられず


大日如来を教主に

金剛薩埵(こんごうさった)
龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)


そして、空海自らを
 含めて真言八祖と設定
  

大日経・金剛頂経はじめ
 多くの経典を広め。。宗派を
  問わず、日本中の寺院に密教概念
   を教え広めた功績は巨大である

しかし、

即身成仏と密厳国土
 などという常人には
  理解し難い困難な教え


宇宙人空海を
 凌駕し、巨大な傘
  から旅立つような
   宗教人は出現しなかった
    と勝手に合点している


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