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「金運」が高まる? 初詣に行きたい神社【中国・四国編】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151228-00000014-zuuonline-bus_all

『■「困難に屈しない力」にあやかる

中国や四国の地は、かつて朝廷にも匹敵する強力な王朝が存在したともいわれ、また、権勢を振った豪族が中央から追いやられた場所でもあるという。その1つが出雲の地だが、出雲大社がいまなお、伊勢神宮と並ぶ日本の代表的な神社とされることを考えれば、それらの地にある神社は「困難にも屈しない力」を与えてくれる気がしてくる。金運を得ようというとき、そのようなネバーギブアップの心境がまず必要だ。ここで紹介する神社で無心に手を合わせ、古代の人々の気力をいただいてみてはいかがだろうか。

■金持神社 使用済み財布のお祓いも

鳥取と岡山の県境近くにある金持神社は、「金持」と書いて「かもち」と読む。「かねもち」とも読めるため、金運を求める参拝者を全国から集めている。主祭神の天之常立尊(あめのとこたちのみこと)は国土経営、開運、国造りの神であり、その点でも金運に御利益ありと考えていいだろう。

絵馬がかけられた場所には、金運を願う絵馬のほか、大金を得たことを報告するお礼参りの絵馬もぶらさがっていることから、霊験あらたかと考えてもよさそうだ。

日野町観光協会も兼ねる金持神社札所では、お守りのほか、幸せの黄色いハンカチや財布、金持米や金持味噌、金持酒など、さまざまな開運グッズを販売している。また、使用済みの財布をお祓いする「財布お祓い」が年4回行われている。

金持神社(かもちじんじゃ)
鳥取県日野郡日野町金持1490 TEL.0859-72-0481

■吉備津彦神社/吉備津神社 「桃太郎」のリーダーシップにあやかる

どちらも大吉備津彦神に関係する神社であり、一方の神社だけに参拝するのは「かた参り」といい良くないとされる。

神話では、大吉備津彦神がこの地に住む鬼を退治したといわれ、これが桃太郎伝説のモデルとなっている。吉備国には多くの古墳や遺跡があることから、この神話は古代に瀬戸内海の海運を支配した一大王朝の存在が反映されたものと考えられていいだろう。

その王国はよほど強力だったようで、大化の改新の後、吉備勢力の力を恐れた朝廷は「備前」「備中」「備後」とこの地を三分割した。このうち、備前一宮に置かれたのが吉備津彦神社、備中一宮に置かれたのが吉備津神社だ。そこで、この2つの神社を参拝する者は、古代吉備王朝を率いた大吉備津彦神=桃太郎のようなリーダーシップにあやかれるかもしれない。

大吉備津彦神はこの地に製鉄を広めたといわれ、そこから産業の神ともされている。和歌において「吉備」の枕詞が「真金吹く」であるのは、真金(鉄)を吹く(生産する)というところから。それに関連して大吉備津彦神を祀るこれらの神社は金運全般に御利益があるという。特に製造業の人はここを参拝し、日本の物造りを支えてきた先人たちに思いを馳せてみてはいかがだろうか。

吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)
岡山市一宮1043 TEL.086-284-0031

吉備津神社(きびつじんじゃ)
岡山市北区吉備津931 TEL.086-287-4111

■出雲大社 古代の息吹を実感できるパワースポット

伊勢神宮と並んで日本を代表する神社。2014年に宮司家の千家国麿氏と皇族の高円宮典子女王が結婚したことは記憶に新しい。

出雲大社には4つの鳥居があり、参拝時にはやはりそのすべてをくぐることが望ましい。第一の鳥居は鉄筋コンクリート製の大鳥居で、第二の鳥居は木造の鳥居。最寄り駅はこの2つの鳥居の間にあるので、参拝時にはそこから第一の鳥居まで戻って順にくぐったほうがいいだろう。

第二の鳥居の周辺では昔、市が立ったり芝居小屋が来たりして人が集まってきたため、「人の勢いが集まる場所」という意味で「勢溜」と呼ばれる。参道はここが一番高い場所となるため、ここを「上がってきた勢いが溜まるパワースポット」と考える人もいるようだ。

ここから参道は下り道となり、途中の右手方向に小さな社が隠れるように建っている。これは祓社(はらえのやしろ)と呼ばれ、我々が知らぬ間に犯した心身の穢れを祓い清めてくれる場所とされる。第三の鉄製の鳥居をくぐる前にここで心身を清めておこう。

第四の鳥居をくぐると拝殿となるが、この銅製の鳥居に触れると金運が上がるといわれており、多くの人が触れたためか手の届くあたりの位置が磨かれたように光り輝いている。この鳥居は1666年に毛利綱広によって寄進されたもの。由来がびっしりと刻まれているので神頼みだけでなく、この神社の壮大な歴史にも思いを馳せてみてはいかがだろうか。

出雲大社(いづもおおやしろ)
島根県出雲市大社町杵築東195 TEL.0853-53-3100

■伊豫豆比古命神社 「守り金」で生業に励むことを約束する

縁起開運・商売繁昌の神様として崇敬を寄せられている神社で、「椿神社」「お椿さん」との愛称でも知られる。社名にもなっている伊豫豆比古命のほか、愛比売命(えひめのみこと)という女神も祀られており、この神名から「愛媛」の県名が名付けられた。なお、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛県のみである。

2012年には御鎮座2300年祭が行われるなど、その歴史は大変古く、旧正月7~9日に行われる「椿まつり」は数十万人が訪れる四国一の大祭となる。

興味深いのは、この祭りで行われる「貸銭神事」。これは、神社から守り金(20円)を借りて、翌年、倍額にして返すという行事だ。守り金は誰でも借りることができ、一年間、生業に励み、少しでも多く返せるように頑張ることを約束する意味があるという。

安易に金運を願うのではなく、そのための努力を約束するという心の姿勢こそが、物心両面の豊かさをもたらしてくれるのではないだろうか。

伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)
愛媛県松山市居相2-2-1 TEL. 089-956-0321                         』




パワースポットとして、各地の神社が
 注目され始めているが。。神社はそもそも
  磐座を起源とする比較的新しい宗教施設


磐座とも密接な関係のあるものと
 してはむしろ、遺跡や古墳により注目


何しろ古来、民の信仰対象を
 コントロールしたのは地域の豪族
  その祖先を祀る墓が古墳なのである


島根の出雲大社。。古墳時代の名残りを
 引き継ぐ宗教施設かも知れない。。また
  岡山の吉備津彦神社/吉備津神社は
   ヤマト王権勃興以前の超強国首長末裔
    に関係する神社かも知れないのであるが


また日本神話登場の神々を祭るのが
 神社であるとするならば、神話そのものが
  8世紀完成の新しい代物であり、真に歴史
   を伝えるものかどうかはいささか疑問である


時の権力者が過去の強大勢力の
 痕跡を消し去りたい、また矮小化したい
  と考えるのは当然であり、神話誕生からのち
   に創られた日本の歴史が現代に伝わる、と
    疑ってかかった方が余程賢明であるのだから



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≪箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない!と推理する≫【ヤマト王権擁立の第一人者<吉備の大王墓>だ!!】


【邪馬台国は日本に非ず】《日本古代史最大のプロパガンダ》<女王卑弥呼の墓=箸墓古墳>説を・・・【全否定してみる】



小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!という見解

   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた

纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓
  という説の登場
により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m

日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された
との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造
との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者
それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い

とすれば。。


纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、
纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳
と数多く存在
そしてこの記事の
京都府向日市の国内最古級の前方後円墳
五塚原(いつかはら)古墳も条件を満たしてくる


小生。。3年近く前に
 既に邪馬台国は外国にあった
  可能性を示す説を紹介している


実際は、もう4年以上前の見解ではあるが
 日本考古学界。。弱小であり、戦前は勿論
  戦後も長らく、監視下。。皇国史観や国粋
   主義者等の目を気にして、いや今もだろう


邪馬台国や卑弥呼。。そして特に
 日本神話などは絶対に軽視出来ない
  唯一の国史。。史書であることを抜きに
   しても、顔色を窺わざるを得ないはずだ


歴史学界・考古学主流派
 邪馬台国畿内説学派の歴史家
  は、邪馬台国を纒向遺跡に。。
   箸墓古墳を卑弥呼墓に結び付け
    たがる傾向が強いのであろうが


どう考えても無理があり過ぎる訳だ




≪日本の曙!《ヤマト勃興》に関する壮大な推理≫<卑弥呼・邪馬台国は日本ではない>【ヤマト王権は周辺強国により擁立された!!】


小生。。岡山には敏感に反応する
 何もかもに反応ではなく、古墳・遺跡
  古代。。超古代史に関連する事柄に
   である。。
その理由は、岡山=旧吉備

吉備国または吉備王国
 日本古代史のNO1キーマン
  の居城・拠点。。
神々の棲んだ
   偉大なるエリア!
と考えている

 
吉備。。吉備国。。
 古代日本の地方国家。現在の岡山県全域
  と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県
   西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)

    またがる、有力勢力の一つ。。いや、NO1!


吉備の代表的な古墳
であり、造山古墳群の主墳
 造山古墳 5世紀築造推定
  全長350m 全国4位の
   超巨大前方後円墳である


全国第1位大仙陵古墳(486m) 伝代16代仁徳天皇陵
2位誉田御廟山古墳(420m) 第15代応神天皇陵
3位上石津ミサンザイ古墳(360m) 第17代履中天皇陵


とそれぞれ宮内庁に比定され
 立ち入りが許されず、学術調査も
  行われていない
のに対して

造山古墳は、立ち入りが許される
 全国最大の超巨大古墳なのである


上位3位までの古墳と
 4位の造山古墳、いずれも
  5世紀の築造。。ヤマトは既に
   存在している訳であって。。


全国1位~3位の古墳が
 堺。。羽曳野、いわゆる河内平野

  に存在に比べて、岡山にある4位
   の造山古墳。。9位の作山古墳が
    存在することから。。
古代吉備には
   
ヤマト王権に対抗しうる、拮抗した
 強力な王権(吉備政権)があった
  との見解。。充分に頷ける学説!!


いや、そもそも吉備がヤマトを創った


全くその通り!邪馬台国畿内説学者
 幅を利かせる考古学・史学界主流派
  は、ヤマトと九州中心で考え過ぎである


鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった


つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。
    また、その他生活文明


諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか


そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ


そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。  


そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか


邪馬台国を纏向遺跡や箸墓古墳と
 関連付けてしか考えられない畿内説学者
  考古学で幅を利かせる主流派の
   考え方や解釈では。。
まず到底
    この新しい事実を受け止めることは
     不可能であり。。誤った判断が
      横行しないことを祈るばかりである


九州が大陸からの技術導入
 などにより、最先進国だったが

  次第に主導権は、吉備や出雲
   瀬戸内海勢力に移り。。
ヤマト擁立

ここで気になるのは、巷いわれる
 邪馬台国。。そして女王卑弥呼とやら


奈良県桜井市
 箸墓古墳。。全長278m
  超巨大前方後円墳であるが
   さらに大きくなる可能性
    全長300mに達するのか


小生、付近一帯を
 巡回して回ったことがある
  巨大古墳が点在する近隣
   しかし、箸墓古墳の姿は
    他の古墳とは、全然違った


池。。ため池?とにかく水辺が
 そこに浮かぶ島のような趣で
  姿・形が美しかったのは当然
   風格のようなものを感じた訳で


辺り一体の桜井や天理
 の巨大古墳を従えるような
  そんな雰囲気すらあった。。


5世紀の超巨大古墳
 伝仁徳天皇陵や応神天皇陵
  などの古墳最盛期とは
   時代も意味合いも全く違う


箸墓古墳の被葬者を
 邪馬台国畿内説の学者連は
  卑弥呼をヤマト王権に直結
   させて、そのけん引役に
    見立てようと躍起になるが


小生。。絶対に違うと考える

考古学研究会のセミナー
 に参加したときのことである


岡山県。。古代旧吉備国
 2世紀の楯築遺跡に注目すれば
  

桜井の箸墓古墳は
 この楯築遺跡の特徴を色濃く継承
  吉備の王との繋がりを権力基盤に

   という学者の説明をきいた訳で

そのヤマト王権勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと
    なのは既に解明済みである


小生。。想像するに
 初期ヤマト王権の長。。倭王
  つまり、呼称は無かったにせよ
   天皇は、御輿のように担いだ
    各強国の王たちには、気兼ね
     現在の国連事務総長のような
      そういう存在ではなかったか


各強国の。。今で言う米・欧・ロ
 とりわけ、超強国の米国的存在
  それは恐らく。。いや確実に
   吉備。。もしくは吉備王権勢力


箸墓古墳クラスの超巨大墳墓
 築造には、数百万人から1千万人
  動員して、築造期間20年ぐらい
   は必要だったのでは、という試算


卑弥呼墓。。百余歩・・150m未満
 シャーマン的存在の30余国。。このクニ
  は村落といって言い訳で、日本の王
   とは考え難く。。卑弥呼では絶対無理


初代倭王(天皇)でもそれは困難で
 もっと、大物だったと考えた方が良い


間違い無い!初代倭王を生み出した
 超古代版治天の君。。ホントの倭王
  吉備の大王と考えた方が自然である


九州から、吉備・出雲に主導権
 その後。。吉備・出雲・畿内・近江
  伊勢・北陸・東海・そして九州勢力もか


各強国首長たちが御輿担ぐように
 擁立したのが、ヤマト王権だとすれば


例えば。。さらに想像を
 膨らませていけば。。
欠史8代
  
古事記・日本書紀といういわゆる
 日本神話を基礎概念に、系譜は
  存在するがその事績が記されない

   第2代綏靖天皇から第9代開化天皇
    までの8人の天皇、あるいはその時代


初代神武天皇と10代崇神天皇
 を同一人物と断定した上で。。


史学界通説・考古学主流
 が居なかった!とする欠史8代
  2代から9代までの諸天皇あるいは
   ヤマト王権の各倭王たち。。
もしや

各強国首長と関係のある人物!
 もしくは、各首長から擁立され
  その後の10代以降の各天皇
   とは血縁関係がない重要人物?


また、さらには

ヤマト擁立の各強国首長の
 後裔・末裔・親族子孫は。。畿内
  ヤマト周辺で王権に寄り添うように
   暮らした可能性を追究して良い筈だ



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卑弥呼墓が大きさ百余歩と著された
 長尺なら120m以上になるが、短尺
  ならばその3分の1程度になり、むしろ
   卑弥呼墓としてはそれが適当である


箸墓古墳は、ヤマト王権の真の実力者
 超強国吉備王国の大王墓と考えるのが
  最も有力であると考えた方が良い訳だ



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