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明日香に巨大古墳 舒明天皇陵か蝦夷の大陵か 考古学者、割れる学説

『奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代最大級の巨大方墳の一部
 が見つかった。ここに葬られたのは舒明(じょめい)天皇か、栄華を極めながら滅び
 た蘇我蝦夷(えみし)か。橿原考古学研究所(橿考研)は「舒明天皇の初葬墓(しょそ
 うぼ)の滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高い」とみるが、裏付けとなる証
 拠は見つかっていない。「蝦夷の大陵(おおみささぎ)」説を推す声も強いほか、「古
 墳と断定できない」と慎重な見方をする専門家もおり、新たな謎をめぐる論争に火が
 付いた』

『飛鳥の歴史に詳しい猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は「とてつもなく大きい古墳で、
 驚いている」とし、日本書紀の記述や、舒明天皇陵が同じ榛原石(はいばらいし)で
 装飾されていることから、被葬者の第1候補に舒明天皇を挙げる。

 「蝦夷の大陵の可能性もあるが、まず浮かんだのは舒明天皇の初葬墓である滑谷
 岡陵。発掘現場周辺には『谷』もあり、イメージに合う」と話す。

 泉森皎(こう)・元橿考研副所長は「蝦夷の大陵」説だ。日本書紀皇極元(642)年
 の条に「(蝦夷が)生前に双墓(ならびのはか)を造る。1つが大陵で蝦夷の墓、1
 つが小陵(こみささぎ)で、入鹿(いるか)の墓とした」との記述がある。見つかった
 方墳の西約150メートルには同じ方墳の菖蒲池(しょうぶいけ)古墳(一辺約30メ
 ートル)があり、泉森元副所長は「2つの古墳は『双墓』の典型。見つかった方墳は
 蝦夷の大陵の可能性が高い」とする。

 橿考研OBの前園実知雄・奈良芸術短大教授も「蝦夷の大陵」の可能性を考える。
 前園教授は榛原石が明日香村内の古墳や寺院で一般的に使われ、特殊性がない
 と指摘。「蝦夷と入鹿は発掘現場北側の甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅があり、
 近くに墓をつくったと考えるのが自然。方墳と菖蒲池古墳は方位がほぼ一致してお
 り、乙巳(いっし)の変(645年)で死亡する前、権力が最高のときに蝦夷が巨大古
 墳を造ったと考える方がスムーズに理解できる」とする。

 千田稔・奈良県立図書情報館長は舒明説を否定しない一方、「築造が7世紀中頃
 なら、斉明(さいめい)天皇(舒明天皇の皇后)の墓の可能性がある」とする。

 日本書紀によれば、斉明天皇は661年に崩御。「飛鳥川原(かわはら)で殯(もがり)
 をした」と記されている。殯は正式埋葬まで遺体を仮安置し、死者を弔う儀式で、千
 田館長は「方墳が見つかった現場の大字(おおあざ)は『川原』。舒明説なども考え
 られるが、斉明天皇も被葬者の候補にあげられると思う」とする。

 一方、長年橿考研で発掘調査を指揮した石野博信・兵庫県立考古博物館長は「ま
 だ古墳とは断定できない」と慎重だ。「苑池(えんち)の可能性や、見たことがない
 石を使った未知の遺構の可能性もある。結論を急がず、遺跡の性格をはっきり突
 き止めることが大事だ」としている』



奈良県明日香村。。飛鳥時代最大級
 の未だ知られていない巨大古墳発見


その被葬者について、第34代舒明天皇
 という見解と、
当代最高権力者豪族蘇我氏
  三代目の蘇我蝦夷の墓とする説が並び立つ


ただ。。ここは、日本古代史の
 キーマンに繋がる分水嶺に関係


舒明天皇墓とした場合でも。。
 日本の史学界が張り巡らせてきた
  プロパガンダに穴が開く可能性がある


ここでひとつ、付記しておきたいのは
 日本の古代史は不明点があまりに多く
  小生も研究の緒についたばかり。。
   今後急転直下見解が変わっていく
    可能性を否定出来ない訳なのである


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≪34代舒明天皇~40代天武天皇≫「日本神話編纂」以前の<天皇の系譜>。。ここへ戻れば【本当の神話】に出会えるかもしれない


<野口王墓古墳>5段構造の八角形墳

『天武・持統天皇合葬陵とされる奈良県明日香村の野口王墓古墳(7世紀後半)について、宮内庁が過去の
調査を基に「5段構造の八角形墳」と結論付けた報告が、村教委が24日発表した「牽牛子塚(けんごし
づか)古墳発掘調査報告書」に掲載された。天皇陵は7世紀中ごろから八角形墳が採用され、野口王墓も
文献などから八角形とされていたが、宮内庁が調査結果を公表するのは初めて』



奈良県明日香村
野口王墓古墳(のぐちのおうのはか)

築造7世紀後半
八角形墳 五段築成円墳状

被葬者は
40代天武天皇 
 41代持統天皇
合葬陵
  ということになっている

日本神話とされる 日本書紀編纂は、
天武天皇治世に
  言い渡されたが。。
実際、持統天皇の世に
 編纂開始。。完成は
44代元正天皇時代だという


『陵墓は原則として一般の研究者は調査できない。野口王墓古墳が1235年に盗掘されたと記した文献
 「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」には、「八角形」との記述があるが、全体像は分かって
 いなかった。近年、情報公開請求が相次ぎ、福尾正彦陵墓調査官が斉明天皇陵と確定的になった牽牛子
 塚古墳の発掘調査報告書に論文を寄稿した』

『それによると、野口王墓は、墳丘の測量結果などから5段構造の八角形と判明した。高さは全体が約
 7.7メートル、最上段は他の段の倍の約3メートルあり、墳丘全面に加工した凝灰岩を貼り付けて
 ストゥーパ(仏塔)のように見せていたと分析。最下段の1辺の長さは約16メートルあり、その周囲
 に幅約3メートルの石敷きがあったと推測した。

 大王墓は6世紀までは前方後円墳や方墳だったが、7世紀に即位した舒明天皇(天武の父)から八角形
 になったとされる。中国古代思想や国土の四方八方を天皇が支配するという思想を視覚化したという説
 などがある。

 舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)や天智天皇(天武の兄)陵とされる御廟野(ごびょうの)
 古墳(京都市)は墳丘の八角形部分が2段で、大型で色の異なる岩が使われている。大阪府立近つ飛鳥博
 物館の白石太一郎館長は「切り石で全面を化粧しており、それ以前にはない形式が、天武天皇から始まっ
 たことが分かる。古墳の変遷を考える上で重要だ」と評価した』




段ノ塚古墳(奈良県桜井市)

34代舒明天皇陵とされる
 30代敏達天皇の皇子
  押坂彦人大兄皇子
 妃糠手姫皇女の子

御廟野(ごびょうの)古墳(京都市)
38代天智天皇(中大兄皇子)陵とされる

舒明天皇は
 天智天皇と
  40代天武天皇(大海人皇子)
    の父である

神話編纂は、この後
 という解釈が成り立つ





牽牛子塚古墳、築造に推定2万人 斉明天皇陵説を補強

『大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)の母、斉明(さいめい)天皇(594
 ~661)の墓と有力視されている奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)につい
 て、村教委は24日、発掘調査報告書を発表した。築造に延べ2万人の労働者が携わったと推定。被葬者
 の権威を示すもので、「斉明天皇の墓説」をさらに補強する内容だ』

『報告書によると、対辺の長さは約22メートル、高さは4・5メートル以上で、7世紀の天皇の墓に特徴
 的な八角形墳。採石地は、墳丘を覆っていた凝灰岩の切り石が約20キロ離れた二上山(大阪・奈良両府
 県境)、石室を囲む柱状の切り石(石英安山岩)が約25キロ北西の寺山・鉢伏山(大阪府羽曳野市周
 辺)、墳丘すそに敷かれた砂岩の一部が約20キロ北東の豊田山(奈良県天理市周辺)とされる』




37代斉明天皇
 35代皇極天皇が重祚(再即位)
  して斉明天皇に。。女帝である

34代舒明天皇の皇后
 舒明天皇は父の異母弟にあたる
  叔父と姪の関係か


斉明天皇陵
 奈良県明日香村
  牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
7世紀後半~8世紀初頭築造
 八角形墳

皇極天皇時代
 中大兄皇子と中臣鎌足
  蘇我入鹿を討ったとされる
   乙巳の変(いっしのへん)が
    起こったとされる

これで、時代が大きく変わった
 蘇我氏が滅亡。。歴史の表舞台から消える
  といっても、本宗家のこと支族はどうなったか


この戦が契機となり
 時代は蘇我氏から藤原氏に
  ゆっくりと実権が移っていく


44代元正天皇時代に完成した
 日本書紀。。いわば藤原不比等初代
  藤原氏都合の神話。。

天智・天武天皇時代以前に立ち戻れば
 また、天皇即位も皇子達の争い
  親や側近の争いでどうなったかわからない


神話を天皇の系譜。。
 豪族の系譜とすれば。。
即位しなかった皇子
 または藤原氏以外の豪族系譜
  闇の壮大な神話が連綿と
   綴られているのではないか



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34代舒明天皇
 30代敏達天皇の皇子
  押坂彦人大兄皇子
 妃糠手姫皇女の子

この押坂彦人大兄皇子
 妃糠手姫皇女


ここが、まず。。最大のキーポイント

日本古代史において。。6世紀の
 キーマン!
押坂彦人大兄皇子

皇族であり、皇位継承の有力者
 ながら。。即位しなかったという
  ことだが、
この押坂彦人大兄皇子
   はなぜか敏達天皇の第一皇子ながら、


皇祖大兄と呼ばれ。。天皇の嫡子
 が皇祖というのは、どう考えても不自然


だとか
埋葬されたとする陵墓は、その墓域が
 史上最大であることがあげられる。

  その規模は実に南北二十町と東西十五町
   であり。。一町は約109m、つまり南北約
    2200m、東西約1600もあった!!

あの仁徳天皇陵よりも大きい、とも。。


まだまだ、謎は枚挙に暇が無く
 小生。。この件について研究が
  全く足りない訳で、ここまでにしておく・・・。

 
そして。。蘇我蝦夷墓なら
 これも日本神話に多大な影響
  を及ぼすことは、以前にも述べた



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【蘇我稲目の墓発見か!!】≪各考古学者・歴史学者の素性をみて、見解を吟味する必要あり≫<考古学・日本史にもプロパガンダの渦>【日本神話を超越した存在《蘇我氏》】


皇室・天皇・王権が勃興したのは
 3世紀半ば。。
超大豪族がそれに
  匹敵する、場合により凌ぐ権勢を誇った


その最終ランナーともいえる実力者
 神話を超えた存在が蘇我氏といえる


蘇我氏
 武内宿禰を祖とする古代大豪族
 渡来人説が流布されたこともあるが
 現在では、その説を支持する人はいないそうだ

蘇我氏四代
 稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿

  この四代時代には、特に隆盛を極め
   論者によっては即位したという説すら

蘇我氏は大豪族の御他聞に漏れず
皇室と密接な閨閥関係。。というより
蘇我氏から天皇を輩出していた印象も


蘇我入鹿
 天下の聖者聖徳太子(神話上そうなっている)
 の子である山背大兄王一家を自殺に追い込んだ
 とされ、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の
 クーデターで蘇我入鹿を滅ぼした


蘇我氏は、これにて完全滅亡ではなく
本宗家が滅亡したに留まり。。
勢いは、完全に途絶えたが、蘇我氏自体は
平安時代初頭まで続いたといわれる


中臣鎌足の子が
 藤原不比等であり
神話編纂総責任者。。
 藤原氏の世はここから始まる


とすれば。。
皇室と共に藤原氏の栄華を褒め称えた
日本神話は、蘇我氏を矮小化する
ことにより成立


蘇我氏以前にも、皇室を凌ぐ権勢を誇った
 氏族は数々存在するが。。


蘇我氏・・・
 日本神話を超越した存在


蘇我氏の実態が明らかになれば
 神話が根底から覆る可能性もある


日本神話というが。。完成は8世紀に
 ずれ込む代物であり、編纂総責任者は
  藤原不比等といわれ、その時代の感性
   藤原氏賛美の価値観に彩られる訳で。。


当時の実力者に躍り出た
 藤原氏の世を脅かしかねない

 
また、過去においても日本神話編纂
 に邪魔になる存在の代表蘇我氏排除
  は当然かも知れないともいえる



階段状の方墳に専門家「見たことない」 渡来文化影響か

『石を階段状に積み上げた様は、まるでピラミッド。奈良県明日香村の都塚(みやこ
 づか)古墳(6世紀後半ごろ)が、国内では類例のない構造を持つ大型方墳とわか
 った。研究者は、朝鮮半島の先進文化をもたらした渡来人との関わりが強い蘇我
 稲目(そがのいなめ=?~570)ら、大豪族の蘇我氏に注目する』




研究者とは誰か??知らないが
 藤原氏賛美で編纂の日本書紀
  それに基づいて、発掘資料を認定
   せざるを得ない考古学界及び歴史学界


神話の域から全く超越しないばかりか
 戦前戦後厳しく検閲を受け、監視された
  先輩たちの流れを引き継いだのか。。


保守的な。。硬直した見解の持ち主
 プロパガンダ・扇動を巻き起こす学者
  邪馬台国畿内説派等々が存在して
   よく吟味して解説に目を通すべきだ


考古学・歴史学には
 日本国内政治を超える
  プロパガンダが渦巻いている!


藤原氏賛美の日本神話を
 スタート地点としている古代史学界
  よって、藤原不比等が認めなかった
   氏族・豪族を忌み嫌い排除する傾向


蘇我氏に対する蔑称や矮小評価
 悪役説は全く以ってその典型である


今後の考古学・古代史は
 日本神話の枠を打ち破る発見
  新説が続々と登場することになろう


しかし、肝心の学者・研究者が
 日本神話にとらわれ過ぎていては
  せっかくの新説・真説も取り逃してしまう

藤原氏賛美から。。近代の皇国史観
 邪馬台国過大評価ほか。。数々のハードル
  を乗り越えて、真の古代に辿り着きたいもの



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34代舒明天皇~50代桓武天皇系譜図
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