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町の集会所が”宗教法人”になるまで……GHQの脅威と戦ってきた神社 と神職の基礎知識
『――山や川、木や花など、自然のすべてのものには神が宿る……そんな八百万の
神を信仰する、寛容な宗教である神道。まずはその歴史をさかのぼってみよう。
日本における神道の歴史は、戦前と戦後で大きく分けられる。戦前の神道は神社
を中心とする「神社神道」として、各地域の文化や伝統が色濃く反映されていた』
神社神道。。あやふやなので
念のため調べてみた訳である
≪神社神道≫
神社神道(じんじゃしんとう)とは神道の一つの形態である。
以下の2つの意味で使われる。
第二次世界大戦前の「国家神道」の異称。国家神道。
第二次世界大戦後の神社を中心に、氏子・崇敬者などによる
組織によっておこなわれる祭祀儀礼を信仰の中心とする形態。
現在では単に「神道」という場合、神社神道を指す。祭祀の場
となる神社は日本各地に数多くあるが、そのほとんどが神社
本庁によって包括されている。
神社神道には教典は存在せず、『古事記』や『日本書紀』など
の神典にのっとり祭祀をおこなう。 祭祀の担い手となるのは
神職であり、神社本庁の定める研修を修了した者に資格が授
与される。ただし、神社本庁以外の包括団体に属する神社や、
単立神社ではこの限りではない (ウィキペディアより)
ここでいう、戦前の神道。。
国家神道を指すようである
明治政府の方針に則った・・。
しかし、明治以前から厳然と
神社というものは存在したのは
言うまでもないことなのである
小生。。元来、<明治以降>
には、あまり興味が無い訳だ。。
『ところが戦後、1945年に連合国軍総司令部(GHQ)による「神道指令」が発令され、
「GHQの”宗教改革”によって神社がなくなる」という危機感を持った神社界の有志
たちにより、「神社本庁」が設けられた。これによって、全国の神社は包括されるよ
うになったのだ。
さらに翌年の46年、神社は「宗教法人」として認可される。つまり、これを境に、町
の公民館的な役割を果たしていた神社は、仏教やキリスト教などと同じ”宗教”と
して正式に定められたのである』
日本国憲法の上部、治外法権
超権力者だった連合軍総司令部GHQ
日本の宗教、思想、文化にまで手を入れ
敗戦国、被占領国だから仕方が無いのか
戦争というのは、それだけ激しく非常だ
『また、神社本庁の包括下にある神社には、祀られている神様のお役目によって「氏
神神社」「崇敬神社」と分けられるほか、「別表神社」と呼ばれるものがある。「神道
指令」によって、それまで法令で指定されていた社格制度が廃止され、「伊勢神宮」
を除くすべての神社は同等に位置することとなったものの、一部の大社に対しては、
「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすると定めたのだ。ちなみに、
都内では明治神宮や日枝神社、東京大神宮などがこれに当てはまり、「年間2000
万円以上の社入金があり、かつ職員を若干名以上採用することが最低条件」(十
王舘禰宜)なのだという』
現代に残る。。街の小さな神社や
観光地や歴史情緒の街にある
大社、大神社でも。。全く宗教性
を感じないのはその名残なのだ
単に観光資源、歴史遺産として。。
しかし!!神社はれっきとした文明
文化、宗教なのであり。。古代から
権力者の道具だったといえる訳だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪松尾大社裏山から巨岩見つかる!!≫<京都一の古社、松尾大社>【磐座。。古墳。。神社・・・古代からの信仰中心の社会構造形成の典型】
京都市西京区松尾大社
京都屈指の大社・古社
古代。。地域を豪族が支配する
地域の信仰対象として、磐座が
そして、豪族の祖先・一族が
葬られた墳墓。。古墳が存在
磐座。。神社の起源・前身
とする説が根強く存在している
小生。。同じく京都の
石清水八幡宮で述べたが
更にハッキリ典型例が見つかった
≪京都八幡市。。石清水八幡宮近くの今里遺跡≫<今も残る隅田墓地はその名残り>【日本の社会構造形成プロセスを想像させる】
今里遺跡
京都府八幡市(やわたし)
近隣の長岡京市にも
同じ名の遺跡があるようだ
今里遺跡は墓地遺跡
隣接するの隅田墓地は
その名残りとして今も
存在しているとのこと
なぜ、この遺跡が目に付いたか
八幡市といえば、有名な八幡さん
石清水八幡宮が鎮座している
旧称男山八幡宮。。八幡市男山
昔、わざわざ調べて参拝した
懐かしい記憶が蘇ってきたからだ
八幡市は、日本全国に存在する
大規模神社寺院の周辺に形成された
町。。すなわち門前町として発展した
石清水八幡宮。。
創建は、平安時代9世紀後半
八幡宮総本社九州の宇佐神宮
から勧請されたのがその始まり
日本の神社
古いものでも平安遷都以前
の奈良時代がせいぜいであり
飛鳥時代まで遡れるのは
稀な部類ではないだろうか
したがって、石清水八幡宮は
相当古い社に該当するはずであり
日本神話とされる記紀。。
日本書紀などに記載される
社もあるようだが。。
そもそも日本神話自体
8世紀完成という代物
日本の神社は、神話の神々
を祭神とする系列に整備された
神社庁管轄の文化施設である
しかし、日本書記が藤原不比等
が編纂総責任者だというが
また、日本神話が皇室賞賛と
みせかけての藤原氏賞賛の神話
編纂が不比等の野望との説もある
これに照らし合わせれば
その神々に沿った祭神を擁する
日本の神社も。。一説によれば
8世紀ぐらいまでに多く存在した
ともいわれる原初・原始神社
その当初の姿から
神の塗り替え・神隠しにより
長期間のうちに再編成された
ものではないかという仮説が
成り立つ可能性が充分ある訳だ
神社の起源。。今なお謎が多いが
神聖な山、大木・巨岩。。磐座
このような祈りの場、ここに社が
これを原初・原始神社とする説が
もうひとつ、有力な説として
自然物である山や大木、巨岩
それらと密接な関係を持って存在して
いるのが、日本列島に無数の古墳群
皇室や豪族の祖神・祖先・守護神の墓
これが大小様々な古墳であるが。。
峰々山々。。に密接に絡み
存在する皇室・豪族の祖先墓である
古墳群は、大量の人々の労働力による
大自然に宿る神々・精霊と一体化
させて存在した自らの祖先墓。。古墳
だとすれば。。各地域を支配した
豪族層が創建したともされる原始神社
自らの祖先。。勢力の守護神を祀った
はずなのであろうと想像出来るが
原始神社は、古墳の周辺に創建。。
と同時に地域支配の統合の象徴とされ
たはずなのであり、その後。。
祭神や形を変え、また勧請分霊を重ねて
全国各地無数に点在している
現在の神社として存続したといえる
松尾大社
小生も参拝したことがある
京都市中心部とは違った
落ち着いた雰囲気の社である
当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座と
される巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松
尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』
に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛
野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂され
たころには有力な神とされていたことがわかる。
大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在
地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕
させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神
職を務めた
(ウィキペディア)
豪族秦氏一族が、松尾山の
巨岩を磐座として崇めたのか
それとも、磐座に指定したのか
松尾山付近には
山田古墳・松尾谷古墳群・松尾
大社西方古墳群・松尾山古墳群
が従来存在し。。一括して
松尾山古墳群とされ、厳然存在
そこに、創建されたのが
松尾大社という訳である
大山咋神という
日本神話の山の神
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が
大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。
日吉大社には後に大物主神が勧請されており、
大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。
山王は二神の総称である。大物主神は西本宮
に、大山咋神は東本宮に祀られている。
そのほか、日枝神社(東京都千代田区)、
松尾大社(京都市西京区)および全国の
日枝神社、松尾神社で祀られている
(ウィキペディア)
日本神話編纂。。もしくは
その原典で登場した神なのか
秦氏の祖先が。。
日本神話に、大山咋神と
その名を変えて現代に語り
継がれてきたといえるのだろう。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の歴史。。古代から、いや
自然崇拝の時代から脈々と
列島各地にあった神社の歴史
小生の見解では、まず。。日本神話編纂
の8世紀以降、時の権力者藤原不比等
の意向によって神話と祭神。。それに
沿うように、超古代からの祖霊・氏神
信仰から。。神の入れ替え・神隠しが!
以降、藤原氏中心の勝者の歴史
永い時代の変遷。。歴史を経て明治維新
明治新政府が国家神道なるもの
神仏判然令や神仏分離令、廃仏毀釈
この皇国史観・軍国主義は世界大戦
の敗戦で。。何もかも、連合国の支配
現代に残る無味乾燥。。無機質。。単なる
観光資源に成り下がってしまった神社か。。
『――山や川、木や花など、自然のすべてのものには神が宿る……そんな八百万の
神を信仰する、寛容な宗教である神道。まずはその歴史をさかのぼってみよう。
日本における神道の歴史は、戦前と戦後で大きく分けられる。戦前の神道は神社
を中心とする「神社神道」として、各地域の文化や伝統が色濃く反映されていた』
神社神道。。あやふやなので
念のため調べてみた訳である
≪神社神道≫
神社神道(じんじゃしんとう)とは神道の一つの形態である。
以下の2つの意味で使われる。
第二次世界大戦前の「国家神道」の異称。国家神道。
第二次世界大戦後の神社を中心に、氏子・崇敬者などによる
組織によっておこなわれる祭祀儀礼を信仰の中心とする形態。
現在では単に「神道」という場合、神社神道を指す。祭祀の場
となる神社は日本各地に数多くあるが、そのほとんどが神社
本庁によって包括されている。
神社神道には教典は存在せず、『古事記』や『日本書紀』など
の神典にのっとり祭祀をおこなう。 祭祀の担い手となるのは
神職であり、神社本庁の定める研修を修了した者に資格が授
与される。ただし、神社本庁以外の包括団体に属する神社や、
単立神社ではこの限りではない (ウィキペディアより)
ここでいう、戦前の神道。。
国家神道を指すようである
明治政府の方針に則った・・。
しかし、明治以前から厳然と
神社というものは存在したのは
言うまでもないことなのである
小生。。元来、<明治以降>
には、あまり興味が無い訳だ。。
『ところが戦後、1945年に連合国軍総司令部(GHQ)による「神道指令」が発令され、
「GHQの”宗教改革”によって神社がなくなる」という危機感を持った神社界の有志
たちにより、「神社本庁」が設けられた。これによって、全国の神社は包括されるよ
うになったのだ。
さらに翌年の46年、神社は「宗教法人」として認可される。つまり、これを境に、町
の公民館的な役割を果たしていた神社は、仏教やキリスト教などと同じ”宗教”と
して正式に定められたのである』
日本国憲法の上部、治外法権
超権力者だった連合軍総司令部GHQ
日本の宗教、思想、文化にまで手を入れ
敗戦国、被占領国だから仕方が無いのか
戦争というのは、それだけ激しく非常だ
『また、神社本庁の包括下にある神社には、祀られている神様のお役目によって「氏
神神社」「崇敬神社」と分けられるほか、「別表神社」と呼ばれるものがある。「神道
指令」によって、それまで法令で指定されていた社格制度が廃止され、「伊勢神宮」
を除くすべての神社は同等に位置することとなったものの、一部の大社に対しては、
「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすると定めたのだ。ちなみに、
都内では明治神宮や日枝神社、東京大神宮などがこれに当てはまり、「年間2000
万円以上の社入金があり、かつ職員を若干名以上採用することが最低条件」(十
王舘禰宜)なのだという』
現代に残る。。街の小さな神社や
観光地や歴史情緒の街にある
大社、大神社でも。。全く宗教性
を感じないのはその名残なのだ
単に観光資源、歴史遺産として。。
しかし!!神社はれっきとした文明
文化、宗教なのであり。。古代から
権力者の道具だったといえる訳だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪松尾大社裏山から巨岩見つかる!!≫<京都一の古社、松尾大社>【磐座。。古墳。。神社・・・古代からの信仰中心の社会構造形成の典型】
京都市西京区松尾大社
京都屈指の大社・古社
古代。。地域を豪族が支配する
地域の信仰対象として、磐座が
そして、豪族の祖先・一族が
葬られた墳墓。。古墳が存在
磐座。。神社の起源・前身
とする説が根強く存在している
小生。。同じく京都の
石清水八幡宮で述べたが
更にハッキリ典型例が見つかった
≪京都八幡市。。石清水八幡宮近くの今里遺跡≫<今も残る隅田墓地はその名残り>【日本の社会構造形成プロセスを想像させる】
今里遺跡
京都府八幡市(やわたし)
近隣の長岡京市にも
同じ名の遺跡があるようだ
今里遺跡は墓地遺跡
隣接するの隅田墓地は
その名残りとして今も
存在しているとのこと
なぜ、この遺跡が目に付いたか
八幡市といえば、有名な八幡さん
石清水八幡宮が鎮座している
旧称男山八幡宮。。八幡市男山
昔、わざわざ調べて参拝した
懐かしい記憶が蘇ってきたからだ
八幡市は、日本全国に存在する
大規模神社寺院の周辺に形成された
町。。すなわち門前町として発展した
石清水八幡宮。。
創建は、平安時代9世紀後半
八幡宮総本社九州の宇佐神宮
から勧請されたのがその始まり
日本の神社
古いものでも平安遷都以前
の奈良時代がせいぜいであり
飛鳥時代まで遡れるのは
稀な部類ではないだろうか
したがって、石清水八幡宮は
相当古い社に該当するはずであり
日本神話とされる記紀。。
日本書紀などに記載される
社もあるようだが。。
そもそも日本神話自体
8世紀完成という代物
日本の神社は、神話の神々
を祭神とする系列に整備された
神社庁管轄の文化施設である
しかし、日本書記が藤原不比等
が編纂総責任者だというが
また、日本神話が皇室賞賛と
みせかけての藤原氏賞賛の神話
編纂が不比等の野望との説もある
これに照らし合わせれば
その神々に沿った祭神を擁する
日本の神社も。。一説によれば
8世紀ぐらいまでに多く存在した
ともいわれる原初・原始神社
その当初の姿から
神の塗り替え・神隠しにより
長期間のうちに再編成された
ものではないかという仮説が
成り立つ可能性が充分ある訳だ
神社の起源。。今なお謎が多いが
神聖な山、大木・巨岩。。磐座
このような祈りの場、ここに社が
これを原初・原始神社とする説が
もうひとつ、有力な説として
自然物である山や大木、巨岩
それらと密接な関係を持って存在して
いるのが、日本列島に無数の古墳群
皇室や豪族の祖神・祖先・守護神の墓
これが大小様々な古墳であるが。。
峰々山々。。に密接に絡み
存在する皇室・豪族の祖先墓である
古墳群は、大量の人々の労働力による
大自然に宿る神々・精霊と一体化
させて存在した自らの祖先墓。。古墳
だとすれば。。各地域を支配した
豪族層が創建したともされる原始神社
自らの祖先。。勢力の守護神を祀った
はずなのであろうと想像出来るが
原始神社は、古墳の周辺に創建。。
と同時に地域支配の統合の象徴とされ
たはずなのであり、その後。。
祭神や形を変え、また勧請分霊を重ねて
全国各地無数に点在している
現在の神社として存続したといえる
松尾大社
小生も参拝したことがある
京都市中心部とは違った
落ち着いた雰囲気の社である
当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座と
される巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松
尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』
に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛
野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂され
たころには有力な神とされていたことがわかる。
大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在
地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕
させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神
職を務めた
(ウィキペディア)
豪族秦氏一族が、松尾山の
巨岩を磐座として崇めたのか
それとも、磐座に指定したのか
松尾山付近には
山田古墳・松尾谷古墳群・松尾
大社西方古墳群・松尾山古墳群
が従来存在し。。一括して
松尾山古墳群とされ、厳然存在
そこに、創建されたのが
松尾大社という訳である
大山咋神という
日本神話の山の神
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が
大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。
日吉大社には後に大物主神が勧請されており、
大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。
山王は二神の総称である。大物主神は西本宮
に、大山咋神は東本宮に祀られている。
そのほか、日枝神社(東京都千代田区)、
松尾大社(京都市西京区)および全国の
日枝神社、松尾神社で祀られている
(ウィキペディア)
日本神話編纂。。もしくは
その原典で登場した神なのか
秦氏の祖先が。。
日本神話に、大山咋神と
その名を変えて現代に語り
継がれてきたといえるのだろう。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の歴史。。古代から、いや
自然崇拝の時代から脈々と
列島各地にあった神社の歴史
小生の見解では、まず。。日本神話編纂
の8世紀以降、時の権力者藤原不比等
の意向によって神話と祭神。。それに
沿うように、超古代からの祖霊・氏神
信仰から。。神の入れ替え・神隠しが!
以降、藤原氏中心の勝者の歴史
永い時代の変遷。。歴史を経て明治維新
明治新政府が国家神道なるもの
神仏判然令や神仏分離令、廃仏毀釈
この皇国史観・軍国主義は世界大戦
の敗戦で。。何もかも、連合国の支配
現代に残る無味乾燥。。無機質。。単なる
観光資源に成り下がってしまった神社か。。
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