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畿内説、九州説それぞれに根拠あり 邪馬台国はどこなのか
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141202-00000011-pseven-life

『〈倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて國邑を為す。旧百余國。漢の時、
 朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十國〉邪馬台国や卑弥呼について記された唯
 一の資料、『魏志倭人伝』の冒頭である。この中国の歴史書に書かれた記述がその
 後、現代に至るまで日本成立に関わる論争を引き起こした。文化庁主任文化財調査
 官が邪馬台国の「今」を語る』



文化庁。。日本政府側
 そりゃ、否定的な見解は
  表明などしない、出来ない




『邪馬台国は日本の古代国家成立にかかわる重要なテーマである。古くは江戸時代
 の儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らがその謎を解き明かそうとした。肝心の所
 在地をめぐっては、現代まで論争が引き継がれている。

 『倭人伝』によれば、邪馬台国までの道のりは朝鮮半島中西部の帯方郡から対馬国
 (対馬)や一支国(壱岐)を経由し、不弥国(福岡県飯塚市付近)まではほぼ特定でき
 る。

 しかし、そこから南に船で20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日、陸路1月で邪馬
 台国に着くという記述をそのまま辿ると、邪馬台国は九州のはるか南の洋上に存在し
 たことになってしまう。そこで、投馬国から邪馬台国までを「船なら10日、陸路なら1
 月」と読む九州説や、不弥国以降の〈南〉を〈東〉と読み替える畿内説などが提起され
 た』

『その後、九州、畿内を2大候補地としながらも、北は東北地方から南は沖縄まで、日本
 各地に可能性が唱えられた。しかし、『倭人伝』を元にした論争は解釈の域を出ることは
 なく、決着を見ない。そこで考古学の出番となった。考古資料を検証するのである。

 中でも重視されてきたのが銅鏡だ。2世紀前半までは九州北部を中心に出土していた
 のが、2世紀末から3世紀初めには近畿を中心に出土するようになる。例えば「画文帯
 神獣鏡」は、分布を研究した大阪大学の福永伸哉教授によると、2世紀後半から3世紀
 初めの近畿を中心に分布している。

 これにより、卑弥呼の邪馬台国が登場する3世紀半ばまでに、倭国の中心が九州から
 近畿に移ったとみている。それを根拠に邪馬台国=畿内説を唱える考古学者は多い。
 そのため、歴史学者など文献史学者は九州説を、考古学者は畿内説を唱える傾向が
 ある。
 
 畿内説を支持する研究者にとって、邪馬台国の所在地として最有力なのが纒向遺跡
 (奈良県桜井市)だ。3世紀の遺跡で、東西2km、南北1.5kmという当時の集落として類
 を見ない規模を有し、周辺には卑弥呼の墓と目される箸墓古墳などこの時期の墳墓が
 多数ある。発掘は現在も続いており、これまで土器や木製品、多数の桃の種などが出
 土したほか、宮殿ともみられる巨大な建物が整然と並んで建っていたことがわかってい
 る』



卑弥呼の邪馬台国が登場する3世紀半ば
 までに、倭国の中心が九州から近畿に移った


これは本当だろうと思っている

ならば。。
奈良桜井の纒向遺跡
 邪馬台国ではなく。。
  ヤマト王権発祥地だろう


邪馬台国は、古くは九州説
 が断然優勢。。しかし、この
  纒向遺跡が逆転HRとなり

   
箸墓古墳を卑弥呼墓として
 畿内、ズバリ奈良を邪馬台国に
  という畿内説が圧倒的に有利に



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【邪馬台国は日本に非ず】《日本古代史最大のプロパガンダ》<女王卑弥呼の墓=箸墓古墳>説を・・・【全否定してみる】
 

小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!という見解

   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた

纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓
  という説の登場
により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m

日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された
との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造
との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者
それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い

とすれば。。


纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、
纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳
と数多く存在
そしてこの記事の
京都府向日市の国内最古級の前方後円墳
五塚原(いつかはら)古墳も条件を満たしてくる


小生。。3年近く前に
 既に邪馬台国は外国にあった
  可能性を示す説を紹介している



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卑弥呼墓の大きさを150m
 としてみた、のは当初の見解
  それでも300mの箸墓古墳では
   あまりに大き過ぎると言ってみた


ところが。。卑弥呼墓の大きさ
 150mもないのではないか?
  とも思えてきた訳である・・・。


それに。。卑弥呼、本当に日本の女王か
 なぜ。。卑弥呼、このような字を充てるのか

  

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≪邪馬台国畿内説学派が唱える。。箸墓古墳=卑弥呼墓説は、益々遠のいた≫<古代史には。。現代日本政治よりも、遥かに複雑・重厚な壁>【卑弥呼墓は。。今言われる古墳では、どれもデカ過ぎる!】


中海道遺跡との関連。。
 初めて聞いた遺跡名である


京都五塚原古墳。。何度か取り上げた
 箸墓古墳との類似点?箸墓を卑弥呼墓
  とする前提での議論であるから大いに疑問


ただ。。箸墓のミニチュアという大きさ
 の点では、卑弥呼墓煮より近いと以前
  してみた訳だが。。訂正が必要なのだ


五塚原古墳でも大き過ぎるともいえるのだ


京都向日市の 五塚原(いつかはら)古墳
 小生。。以前にも取り上げたことがあるが
  全長91.2m。。卑弥呼墓のスケールに
   はピッタリである!箸墓では大き過ぎる!!



小生。。。

纏向遺跡や箸墓古墳を

邪馬台国だけに縛り付けてしまって
良いのか、
と素人ながら思ってはいた。


そんな中
現在、ある古代中国原典専門
40年のベテランが著した
書物を読んでいる

その著者が言うには
”邪馬台国”は日本に在らず

日本の歴史界が魏志倭人伝
 の訳を間違えている!!


つまり倭に至る出発点の
 場所から間違えている!!

ということらしい。。。


その本たるや
最初から3分の2ぐらいは、
中国の省や郡の場所がズラリ


さすがに、退屈で
 殆ど全て読み飛ばした

そして、
邪馬台国=倭=倭国 
は 中国もしくは朝鮮半島の根元

現在の中華人民共和国内
か北朝鮮内
だという。。。


あまりきいた事が無い説

このまま読み進んでいて良いのか!

単なる異端者の説ではないのか!


と思っている時に


司馬遼太郎の短編集を買ってしまった

そこで見たものは!


司馬遼太郎は
「倭とか倭国、倭人は中国の
  とある場所であり。。
   倭人とか倭とか呼ばれた場所
    が中国内に存在していた」
らしい

と言っている

既に1970年代に、である


司馬遼太郎が言ったからではなく、
そういう説が古来存在していた訳である


では
何故。。日本の歴史学者や歴史専門家達が大挙して
魏志倭人伝の倭に至る出発点を
間違えて訳してしまったというのか

という疑問も残る。。誰か気付いたはず


例えば、英(米)語や他の欧州語
なら日本の学者も読み慣れている
しかし中国の原典には
馴染みが少ない
のは確かにある


もしも、原典の訳を誰か
が間違えてしまい。。。

慣れない原典をあたらずに、
その訳を元に議論が極めて永年白熱
それならば、如何に方角・距離を
あらゆる角度から検証し直しても

・・・・・半永久に倭には到達出来まい

まだ、極めて不確かながら

邪馬台国という概念を。。。

・・・日本の歴史から削除しなければならない


となれば歴史学史上でも群を抜く大事件である!!が。。。


まず卑弥呼墓の円墳直径
 百余歩=約150m


日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


としてみた、小生の見解を訂正である

古代中国の一歩を。。1.4m程度と換算
 しかし、古代の中国の単位は同じ歩でも
  殷・周・秦・漢・魏・晋。。正に百変化に
   近い伸縮具合なのであり。。
要は

小生、古代史研究家の如く上手く
 綿密な論理では言えないのであるが

長里と短里、1歩=1.4mは長里であり
 短里とするならば。。0.3m程度なのだ


と、すれば!!卑弥呼墓は
 30m程度の円墳だったと考え直すべき!!


そして、従前従来から言っているように
 古代史。。いや考古学界は弱小学界である
  戦前は、皇国史観・軍部プロパガンダの前に
   正に完全に息を潜めざるを得なかったのであり


戦後ですら、やはり革新的な論述は
 避けているのが明白なのであり。。いや
  学界の構成員、史学・考古学者の中での
   右派の力が強いように思えてならない


それが、真相追究の道をより狭め遠ざけた


実際は、もう4年以上前の見解ではあるが
 日本考古学界。。弱小であり、戦前は勿論
  戦後も長らく、監視下。。皇国史観や国粋
   主義者等の目を気にして、いや今もだろう


邪馬台国や卑弥呼。。そして特に
 日本神話などは絶対に軽視出来ない
  唯一の国史。。史書であることを抜きに
   しても、顔色を窺わざるを得ないはずだ


歴史学界・考古学主流派
 邪馬台国畿内説学派の歴史家
  は、邪馬台国を纒向遺跡に。。
   箸墓古墳を卑弥呼墓に結び付け
    たがる傾向が強いのであろうが


どう考えても無理があり過ぎる訳だ


日本神話も、無視すれば文献が無く
 なってしまうが。。参考程度にすべき


そして、邪馬台国・卑弥呼のことは
 日本列島超古代の概念から除去必要


小生の理解では。。北部九州は
 確かに国内先進国だったが。。
  

主導権は、弥生時代のある時期
 から。。
吉備・出雲をはじめと
  して北陸地方にも移り始めており

   大陸から直接技術や材料を導入する
    力を持ち始めていたと漠然と感じて
     訳なのであるが。。


ならば。。邪馬台国も中小の勢力
 に入ることにはならないかね?

邪馬台国が日本列島を代表する
 首都であったという解釈が間違っている


吉備・出雲。。ひょっとして九州も
 近江・越(北陸)・東海・伊勢・畿内

 
各強国が神輿を担ぐように
 擁立勃興したのがヤマト王権であり


ヤマトの王。。倭王・大王は、長い間
 擁立してもらった強国各帝王たちに
  遠慮しなければならなかったのでは?

 
よって、初代倭王から
 数代。。欠史八代含め10代まで?いや
  それともそれ以降、10数代大王(天皇)まで
   世襲を許されなかったのは充分に頷ける話


歴史学界主流派から。。その手の
 話が出てきたのを聞いたことが無い


ヤマト王権が、強力な指導力を発揮
 し始めるのも。。歴史学界主流派が
  述べる見解よりもすっと後年だった


と考えて問題無いと思うのである



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纒向遺跡は邪馬台国ではない
 箸墓古墳は、卑弥呼墓ではない

  ヤマト王権発祥の地が纒向遺跡
   これなら、納得も出来るというもの


ならば、箸墓古墳は初代倭王
 即ち、初代天皇墓ということなのか


違うと思えてならない
 皇国史観によって、またそれに
  抗えない古代史・考古学界
   による扇動・プロパガンダだ!


ヤマト擁立の各強国の最右翼
 キングメーカー吉備の大王墓に決定


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