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2014.11.11
≪邪馬台国畿内説学派が唱える。。箸墓古墳=卑弥呼墓説は、益々遠のいた≫<古代史には。。現代日本政治よりも、遥かに複雑・重厚な壁>【卑弥呼墓は。。今言われる古墳では、どれもデカ過ぎる!】
“卑弥呼の墓”と類似、古代史解明の鍵に 京都・五塚原古墳
『京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大が、同市寺戸町にある3世紀半ば
~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」で進める発掘調査で、次
々と重要な成果が出ている。卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈
良県桜井市)との類似点が発見され、近くにある日本最古の祭殿施設があった
「中海道遺跡」との関連も指摘される。古代史を解明する上で鍵となる可能性が
高まり、研究者から注目を集めている』
中海道遺跡との関連。。
初めて聞いた遺跡名である
京都五塚原古墳。。何度か取り上げた
箸墓古墳との類似点?箸墓を卑弥呼墓
とする前提での議論であるから大いに疑問
ただ。。箸墓のミニチュアという大きさ
の点では、卑弥呼墓煮より近いと以前
してみた訳だが。。訂正が必要なのだ
五塚原古墳でも大き過ぎるともいえるのだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない!と推理する≫【ヤマト王権擁立の第一人者<吉備の大王墓>だ!!】
京都向日市の 五塚原(いつかはら)古墳
小生。。以前にも取り上げたことがあるが
全長91.2m。。卑弥呼墓のスケールに
はピッタリである!箸墓では大き過ぎる!!
小生。。以前から
卑弥呼の墓=箸墓古墳
に非ず!という見解を
紹介しているが再掲
したくなってきた
女王卑弥呼が
統治したとされる
邪馬台国は何処か
九州説と畿内説が
大激論・対立してきた
纏向遺跡。。箸墓古墳
が邪馬台国。。卑弥呼の墓
という説の登場により
畿内説が俄然有利になった経緯
しかしながら、
箸墓古墳を卑弥呼墓
とする根拠は、極めて貧弱
・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
早い時期に築造されたものであること
まず卑弥呼の円墳直径
百余歩=約150m
日本の円墳で最大級は
100m程度しかない
この条件に見合う円墳は
日本には存在しない
よって、最初の条件で既に
卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
日本国ではない可能性が出現
ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
前方部で消失を以って、
前方部が後世に増築された
との説は
無理やり
箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
させようとしている可能性
そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
全国でもっとも
早い時期に築造
との説も
卑弥呼の墓は百余歩
150m近くあれば
それで済むし、そもそも
記述が誇張の可能性
九州はじめ日本全国の
数ある村落のうちの一つ
邪馬台国の統治者
それを卑弥呼と仮定すれば
大規模古墳である必要は無い
とすれば。。
纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、
纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳
と数多く存在
そしてこの記事の
京都府向日市の国内最古級の前方後円墳
五塚原(いつかはら)古墳も条件を満たしてくる
小生。。3年近く前に
既に邪馬台国は外国にあった
可能性を示す説を紹介している
小生。。。
纏向遺跡や箸墓古墳を
邪馬台国だけに縛り付けてしまって
良いのか、と素人ながら思ってはいた。
そんな中
現在、ある古代中国原典専門
40年のベテランが著した
書物を読んでいる
その著者が言うには
”邪馬台国”は日本に在らず
日本の歴史界が魏志倭人伝
の訳を間違えている!!
つまり倭に至る出発点の
場所から間違えている!!
ということらしい。。。
その本たるや
最初から3分の2ぐらいは、
中国の省や郡の場所がズラリ
さすがに、退屈で
殆ど全て読み飛ばした
そして、
邪馬台国=倭=倭国
は 中国もしくは朝鮮半島の根元
現在の中華人民共和国内
か北朝鮮内だという。。。
あまりきいた事が無い説
このまま読み進んでいて良いのか!
単なる異端者の説ではないのか!
と思っている時に
司馬遼太郎の短編集を買ってしまった
そこで見たものは!
司馬遼太郎は
「倭とか倭国、倭人は中国の
とある場所であり。。
倭人とか倭とか呼ばれた場所
が中国内に存在していた」らしい
と言っている
既に1970年代に、である
司馬遼太郎が言ったからではなく、
そういう説が古来存在していた訳である
では
何故。。日本の歴史学者や歴史専門家達が大挙して
魏志倭人伝の倭に至る出発点を
間違えて訳してしまったというのか
という疑問も残る。。誰か気付いたはず
例えば、英(米)語や他の欧州語
なら日本の学者も読み慣れている
しかし中国の原典には
馴染みが少ないのは確かにある
もしも、原典の訳を誰か
が間違えてしまい。。。
慣れない原典をあたらずに、
その訳を元に議論が極めて永年白熱
それならば、如何に方角・距離を
あらゆる角度から検証し直しても
・・・・・半永久に倭には到達出来まい
まだ、極めて不確かながら
邪馬台国という概念を。。。
・・・日本の歴史から削除しなければならない
となれば歴史学史上でも群を抜く大事件である!!が。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小生。。古代史、考古学には素人
よって議論も大雑把で。。訂正点も
微調整程度に過ぎないが。。まず
箸墓古墳を卑弥呼墓とする
根拠の中で卑弥呼墓の大きさ
・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
早い時期に築造されたものであること
という条件が掲げられたが。。
まず卑弥呼墓の円墳直径
百余歩=約150m
日本の円墳で最大級は
100m程度しかない
この条件に見合う円墳は
日本には存在しない
としてみた、小生の見解を訂正である
古代中国の一歩を。。1.4m程度と換算
しかし、古代の中国の単位は同じ歩でも
殷・周・秦・漢・魏・晋。。正に百変化に
近い伸縮具合なのであり。。要は
小生、古代史研究家の如く上手く
綿密な論理では言えないのであるが
長里と短里、1歩=1.4mは長里であり
短里とするならば。。0.3m程度なのだ
と、すれば!!卑弥呼墓は
30m程度の円墳だったと考え直すべき!!
そして、従前従来から言っているように
古代史。。いや考古学界は弱小学界である
戦前は、皇国史観・軍部プロパガンダの前に
正に完全に息を潜めざるを得なかったのであり
戦後ですら、やはり革新的な論述は
避けているのが明白なのであり。。いや
学界の構成員、史学・考古学者の中での
右派の力が強いように思えてならない
それが、真相追究の道をより狭め遠ざけた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際は、もう4年以上前の見解ではあるが
日本考古学界。。弱小であり、戦前は勿論
戦後も長らく、監視下。。皇国史観や国粋
主義者等の目を気にして、いや今もだろう
邪馬台国や卑弥呼。。そして特に
日本神話などは絶対に軽視出来ない
唯一の国史。。史書であることを抜きに
しても、顔色を窺わざるを得ないはずだ
歴史学界・考古学主流派
邪馬台国畿内説学派の歴史家
は、邪馬台国を纒向遺跡に。。
箸墓古墳を卑弥呼墓に結び付け
たがる傾向が強いのであろうが
どう考えても無理があり過ぎる訳だ
日本神話も、無視すれば文献が無く
なってしまうが。。参考程度にすべき
そして、邪馬台国・卑弥呼のことは
日本列島超古代の概念から除去必要
小生の理解では。。北部九州は
確かに国内先進国だったが。。
主導権は、弥生時代のある時期
から。。吉備・出雲をはじめと
して北陸地方にも移り始めており
大陸から直接技術や材料を導入する
力を持ち始めていたと漠然と感じて
訳なのであるが。。
ならば。。邪馬台国も中小の勢力
に入ることにはならないかね?
邪馬台国が日本列島を代表する
首都であったという解釈が間違っている
吉備・出雲。。ひょっとして九州も
近江・越(北陸)・東海・伊勢・畿内
各強国が神輿を担ぐように
擁立勃興したのがヤマト王権であり
ヤマトの王。。倭王・大王は、長い間
擁立してもらった強国各帝王たちに
遠慮しなければならなかったのでは?
よって、初代倭王から
数代。。欠史八代含め10代まで?いや
それともそれ以降、10数代大王(天皇)まで
世襲を許されなかったのは充分に頷ける話
歴史学界主流派から。。その手の
話が出てきたのを聞いたことが無い
ヤマト王権が、強力な指導力を発揮
し始めるのも。。歴史学界主流派が
述べる見解よりもすっと後年だった
と考えて問題無いと思うのである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪箸墓古墳被葬者は、卑弥呼では有り得ない≫<初代倭王(天皇)よりずっと大物?>【ならば。。超古代版《治天の君》だ!!】
奈良県桜井市
箸墓古墳。。全長278m
超巨大前方後円墳であるが
さらに大きくなる可能性
全長300mに達するのか
小生、付近一帯を
巡回して回ったことがある
巨大古墳が点在する近隣
しかし、箸墓古墳の姿は
他の古墳とは、全然違った
池。。ため池?とにかく水辺が
そこに浮かぶ島のような趣で
姿・形が美しかったのは当然
風格のようなものを感じた訳で
辺り一体の桜井や天理
の巨大古墳を従えるような
そんな雰囲気すらあった。。
5世紀の超巨大古墳
伝仁徳天皇陵や応神天皇陵
などの古墳最盛期とは
時代も意味合いも全く違う
箸墓古墳の被葬者を
邪馬台国畿内説の学者連は
卑弥呼をヤマト王権に直結
させて、そのけん引役に
見立てようと躍起になるが
小生。。絶対に違うと考える
考古学研究会のセミナー
に参加したときのことである
岡山県。。古代旧吉備国
2世紀の楯築遺跡に注目すれば
桜井の箸墓古墳は
この楯築遺跡の特徴を色濃く継承
吉備の王との繋がりを権力基盤に
という学者の説明をきいた訳で
そのヤマト王権勃興には
吉備・出雲・畿内・伊勢
北陸・東海と。。御輿を
担ぐように、だとのこと
なのは既に解明済みである
小生。。想像するに
初期ヤマト王権の長。。倭王
つまり、呼称は無かったにせよ
天皇は、御輿のように担いだ
各強国の王たちには、気兼ね
現在の国連事務総長のような
そういう存在ではなかったか
各強国の。。今で言う米・欧・ロ
とりわけ、超強国の米国的存在
それは恐らく。。いや確実に
吉備。。もしくは吉備王権勢力
箸墓古墳クラスの超巨大墳墓
築造には、数百万人から1千万人
動員して、築造期間20年ぐらい
は必要だったのでは、という試算
卑弥呼墓。。百余歩・・150m未満
シャーマン的存在の30余国。。このクニ
は村落といって言い訳で、日本の王
とは考え難く。。卑弥呼では絶対無理
初代倭王(天皇)でもそれは困難で
もっと、大物だったと考えた方が良い
間違い無い!初代倭王を生み出した
超古代版治天の君。。ホントの倭王
吉備の大王と考えた方が自然である
各強国首長たちが御輿担ぐように
擁立したのが、ヤマト王権だとすれば
例えば。。さらに想像を
膨らませていけば。。欠史8代
古事記・日本書紀といういわゆる
日本神話を基礎概念に、系譜は
存在するがその事績が記されない
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇
までの8人の天皇、あるいはその時代
初代神武天皇と10代崇神天皇
を同一人物と断定した上で。。
史学界通説・考古学主流
が居なかった!とする欠史8代
2代から9代までの諸天皇あるいは
ヤマト王権の各倭王たち。。もしや
各強国首長と関係のある人物!
もしくは、各首長から擁立され
その後の10代以降の各天皇
とは血縁関係がない重要人物?
また、さらには
ヤマト擁立の各強国首長の
後裔・末裔・親族子孫は。。畿内
ヤマト周辺で王権に寄り添うように
暮らした可能性を追究して良い筈だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代日本政治などよりも
遥かに複雑かつ重厚な壁が
存在する日本古代史・考古学
今後もさらに一層研究が必要な
小生ではあるが。。現時点では
優勢な邪馬台国畿内説学派が唱える
箸墓=卑弥呼墓説には賛成出来ない
『京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大が、同市寺戸町にある3世紀半ば
~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」で進める発掘調査で、次
々と重要な成果が出ている。卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈
良県桜井市)との類似点が発見され、近くにある日本最古の祭殿施設があった
「中海道遺跡」との関連も指摘される。古代史を解明する上で鍵となる可能性が
高まり、研究者から注目を集めている』
中海道遺跡との関連。。
初めて聞いた遺跡名である
京都五塚原古墳。。何度か取り上げた
箸墓古墳との類似点?箸墓を卑弥呼墓
とする前提での議論であるから大いに疑問
ただ。。箸墓のミニチュアという大きさ
の点では、卑弥呼墓煮より近いと以前
してみた訳だが。。訂正が必要なのだ
五塚原古墳でも大き過ぎるともいえるのだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない!と推理する≫【ヤマト王権擁立の第一人者<吉備の大王墓>だ!!】
京都向日市の 五塚原(いつかはら)古墳
小生。。以前にも取り上げたことがあるが
全長91.2m。。卑弥呼墓のスケールに
はピッタリである!箸墓では大き過ぎる!!
小生。。以前から
卑弥呼の墓=箸墓古墳
に非ず!という見解を
紹介しているが再掲
したくなってきた
女王卑弥呼が
統治したとされる
邪馬台国は何処か
九州説と畿内説が
大激論・対立してきた
纏向遺跡。。箸墓古墳
が邪馬台国。。卑弥呼の墓
という説の登場により
畿内説が俄然有利になった経緯
しかしながら、
箸墓古墳を卑弥呼墓
とする根拠は、極めて貧弱
・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
早い時期に築造されたものであること
まず卑弥呼の円墳直径
百余歩=約150m
日本の円墳で最大級は
100m程度しかない
この条件に見合う円墳は
日本には存在しない
よって、最初の条件で既に
卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
日本国ではない可能性が出現
ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
前方部で消失を以って、
前方部が後世に増築された
との説は
無理やり
箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
させようとしている可能性
そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
全国でもっとも
早い時期に築造
との説も
卑弥呼の墓は百余歩
150m近くあれば
それで済むし、そもそも
記述が誇張の可能性
九州はじめ日本全国の
数ある村落のうちの一つ
邪馬台国の統治者
それを卑弥呼と仮定すれば
大規模古墳である必要は無い
とすれば。。
纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、
纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳
と数多く存在
そしてこの記事の
京都府向日市の国内最古級の前方後円墳
五塚原(いつかはら)古墳も条件を満たしてくる
小生。。3年近く前に
既に邪馬台国は外国にあった
可能性を示す説を紹介している
小生。。。
纏向遺跡や箸墓古墳を
邪馬台国だけに縛り付けてしまって
良いのか、と素人ながら思ってはいた。
そんな中
現在、ある古代中国原典専門
40年のベテランが著した
書物を読んでいる
その著者が言うには
”邪馬台国”は日本に在らず
日本の歴史界が魏志倭人伝
の訳を間違えている!!
つまり倭に至る出発点の
場所から間違えている!!
ということらしい。。。
その本たるや
最初から3分の2ぐらいは、
中国の省や郡の場所がズラリ
さすがに、退屈で
殆ど全て読み飛ばした
そして、
邪馬台国=倭=倭国
は 中国もしくは朝鮮半島の根元
現在の中華人民共和国内
か北朝鮮内だという。。。
あまりきいた事が無い説
このまま読み進んでいて良いのか!
単なる異端者の説ではないのか!
と思っている時に
司馬遼太郎の短編集を買ってしまった
そこで見たものは!
司馬遼太郎は
「倭とか倭国、倭人は中国の
とある場所であり。。
倭人とか倭とか呼ばれた場所
が中国内に存在していた」らしい
と言っている
既に1970年代に、である
司馬遼太郎が言ったからではなく、
そういう説が古来存在していた訳である
では
何故。。日本の歴史学者や歴史専門家達が大挙して
魏志倭人伝の倭に至る出発点を
間違えて訳してしまったというのか
という疑問も残る。。誰か気付いたはず
例えば、英(米)語や他の欧州語
なら日本の学者も読み慣れている
しかし中国の原典には
馴染みが少ないのは確かにある
もしも、原典の訳を誰か
が間違えてしまい。。。
慣れない原典をあたらずに、
その訳を元に議論が極めて永年白熱
それならば、如何に方角・距離を
あらゆる角度から検証し直しても
・・・・・半永久に倭には到達出来まい
まだ、極めて不確かながら
邪馬台国という概念を。。。
・・・日本の歴史から削除しなければならない
となれば歴史学史上でも群を抜く大事件である!!が。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小生。。古代史、考古学には素人
よって議論も大雑把で。。訂正点も
微調整程度に過ぎないが。。まず
箸墓古墳を卑弥呼墓とする
根拠の中で卑弥呼墓の大きさ
・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
早い時期に築造されたものであること
という条件が掲げられたが。。
まず卑弥呼墓の円墳直径
百余歩=約150m
日本の円墳で最大級は
100m程度しかない
この条件に見合う円墳は
日本には存在しない
としてみた、小生の見解を訂正である
古代中国の一歩を。。1.4m程度と換算
しかし、古代の中国の単位は同じ歩でも
殷・周・秦・漢・魏・晋。。正に百変化に
近い伸縮具合なのであり。。要は
小生、古代史研究家の如く上手く
綿密な論理では言えないのであるが
長里と短里、1歩=1.4mは長里であり
短里とするならば。。0.3m程度なのだ
と、すれば!!卑弥呼墓は
30m程度の円墳だったと考え直すべき!!
そして、従前従来から言っているように
古代史。。いや考古学界は弱小学界である
戦前は、皇国史観・軍部プロパガンダの前に
正に完全に息を潜めざるを得なかったのであり
戦後ですら、やはり革新的な論述は
避けているのが明白なのであり。。いや
学界の構成員、史学・考古学者の中での
右派の力が強いように思えてならない
それが、真相追究の道をより狭め遠ざけた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際は、もう4年以上前の見解ではあるが
日本考古学界。。弱小であり、戦前は勿論
戦後も長らく、監視下。。皇国史観や国粋
主義者等の目を気にして、いや今もだろう
邪馬台国や卑弥呼。。そして特に
日本神話などは絶対に軽視出来ない
唯一の国史。。史書であることを抜きに
しても、顔色を窺わざるを得ないはずだ
歴史学界・考古学主流派
邪馬台国畿内説学派の歴史家
は、邪馬台国を纒向遺跡に。。
箸墓古墳を卑弥呼墓に結び付け
たがる傾向が強いのであろうが
どう考えても無理があり過ぎる訳だ
日本神話も、無視すれば文献が無く
なってしまうが。。参考程度にすべき
そして、邪馬台国・卑弥呼のことは
日本列島超古代の概念から除去必要
小生の理解では。。北部九州は
確かに国内先進国だったが。。
主導権は、弥生時代のある時期
から。。吉備・出雲をはじめと
して北陸地方にも移り始めており
大陸から直接技術や材料を導入する
力を持ち始めていたと漠然と感じて
訳なのであるが。。
ならば。。邪馬台国も中小の勢力
に入ることにはならないかね?
邪馬台国が日本列島を代表する
首都であったという解釈が間違っている
吉備・出雲。。ひょっとして九州も
近江・越(北陸)・東海・伊勢・畿内
各強国が神輿を担ぐように
擁立勃興したのがヤマト王権であり
ヤマトの王。。倭王・大王は、長い間
擁立してもらった強国各帝王たちに
遠慮しなければならなかったのでは?
よって、初代倭王から
数代。。欠史八代含め10代まで?いや
それともそれ以降、10数代大王(天皇)まで
世襲を許されなかったのは充分に頷ける話
歴史学界主流派から。。その手の
話が出てきたのを聞いたことが無い
ヤマト王権が、強力な指導力を発揮
し始めるのも。。歴史学界主流派が
述べる見解よりもすっと後年だった
と考えて問題無いと思うのである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪箸墓古墳被葬者は、卑弥呼では有り得ない≫<初代倭王(天皇)よりずっと大物?>【ならば。。超古代版《治天の君》だ!!】
奈良県桜井市
箸墓古墳。。全長278m
超巨大前方後円墳であるが
さらに大きくなる可能性
全長300mに達するのか
小生、付近一帯を
巡回して回ったことがある
巨大古墳が点在する近隣
しかし、箸墓古墳の姿は
他の古墳とは、全然違った
池。。ため池?とにかく水辺が
そこに浮かぶ島のような趣で
姿・形が美しかったのは当然
風格のようなものを感じた訳で
辺り一体の桜井や天理
の巨大古墳を従えるような
そんな雰囲気すらあった。。
5世紀の超巨大古墳
伝仁徳天皇陵や応神天皇陵
などの古墳最盛期とは
時代も意味合いも全く違う
箸墓古墳の被葬者を
邪馬台国畿内説の学者連は
卑弥呼をヤマト王権に直結
させて、そのけん引役に
見立てようと躍起になるが
小生。。絶対に違うと考える
考古学研究会のセミナー
に参加したときのことである
岡山県。。古代旧吉備国
2世紀の楯築遺跡に注目すれば
桜井の箸墓古墳は
この楯築遺跡の特徴を色濃く継承
吉備の王との繋がりを権力基盤に
という学者の説明をきいた訳で
そのヤマト王権勃興には
吉備・出雲・畿内・伊勢
北陸・東海と。。御輿を
担ぐように、だとのこと
なのは既に解明済みである
小生。。想像するに
初期ヤマト王権の長。。倭王
つまり、呼称は無かったにせよ
天皇は、御輿のように担いだ
各強国の王たちには、気兼ね
現在の国連事務総長のような
そういう存在ではなかったか
各強国の。。今で言う米・欧・ロ
とりわけ、超強国の米国的存在
それは恐らく。。いや確実に
吉備。。もしくは吉備王権勢力
箸墓古墳クラスの超巨大墳墓
築造には、数百万人から1千万人
動員して、築造期間20年ぐらい
は必要だったのでは、という試算
卑弥呼墓。。百余歩・・150m未満
シャーマン的存在の30余国。。このクニ
は村落といって言い訳で、日本の王
とは考え難く。。卑弥呼では絶対無理
初代倭王(天皇)でもそれは困難で
もっと、大物だったと考えた方が良い
間違い無い!初代倭王を生み出した
超古代版治天の君。。ホントの倭王
吉備の大王と考えた方が自然である
各強国首長たちが御輿担ぐように
擁立したのが、ヤマト王権だとすれば
例えば。。さらに想像を
膨らませていけば。。欠史8代
古事記・日本書紀といういわゆる
日本神話を基礎概念に、系譜は
存在するがその事績が記されない
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇
までの8人の天皇、あるいはその時代
初代神武天皇と10代崇神天皇
を同一人物と断定した上で。。
史学界通説・考古学主流
が居なかった!とする欠史8代
2代から9代までの諸天皇あるいは
ヤマト王権の各倭王たち。。もしや
各強国首長と関係のある人物!
もしくは、各首長から擁立され
その後の10代以降の各天皇
とは血縁関係がない重要人物?
また、さらには
ヤマト擁立の各強国首長の
後裔・末裔・親族子孫は。。畿内
ヤマト周辺で王権に寄り添うように
暮らした可能性を追究して良い筈だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代日本政治などよりも
遥かに複雑かつ重厚な壁が
存在する日本古代史・考古学
今後もさらに一層研究が必要な
小生ではあるが。。現時点では
優勢な邪馬台国畿内説学派が唱える
箸墓=卑弥呼墓説には賛成出来ない
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- ≪卑弥呼墓は、箸墓古墳ではない!邪馬台国は日本には無い≫<日本古代史界には、政治以上のプロパガンダ>【卑弥呼が日本列島の女王。。初代天皇が強大な征服王。。《どちらも違う》】 (2014/12/03)
- ≪邪馬台国畿内説学派が唱える。。箸墓古墳=卑弥呼墓説は、益々遠のいた≫<古代史には。。現代日本政治よりも、遥かに複雑・重厚な壁>【卑弥呼墓は。。今言われる古墳では、どれもデカ過ぎる!】 (2014/11/11)
- ≪箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない!と推理する≫【ヤマト王権擁立の第一人者<吉備の大王墓>だ!!】 (2014/10/17)
- ≪超古代日本列島。。『九州』から、【出雲・吉備】で始まった!≫<邪馬台国・卑弥呼は一度概念から除去すべき>【ヤマト王権も吉備・出雲らの強国が創った!】 (2014/10/12)
- ≪宮内庁。。そして歴史学界はなぜ、ハッキリさせないのだろうか≫<九州宮崎の[西都原古墳群]<陵墓参考地>《男狭穂塚》>【日本神話と古代史・考古学とも整合性が無い】 (2014/09/08)
- 【蘇我稲目の墓発見か!!】≪各考古学者・歴史学者の素性をみて、見解を吟味する必要あり≫<考古学・日本史にもプロパガンダの渦>【日本神話を超越した存在《蘇我氏》】 (2014/08/14)
- 【日本の始まり。。<宇宙線で古墳調査>真の歴史研究に光明が!!<レーザーを超える新技術登場>】≪日本神話は御伽噺ではダメだ。。歴史書なのだから≫ (2014/07/08)
- ≪日本の曙!《ヤマト勃興》に関する壮大な推理≫<卑弥呼・邪馬台国は日本ではない>【ヤマト王権は周辺強国により擁立された!!】 (2014/06/21)
- ≪謎に包まれ迷路に入り込む日本神話の妙≫<高円宮典子女王・千家国麿氏婚約内定>【近代。。いや過去にこのような結婚はあったのだろうか】 (2014/05/28)
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安倍内閣のウソノミクスで17日発表のGDPは無残な数字となるようで、18日にも経済対策を盛り込んだ2014年度補正予算の編成が指示され、解散総選挙となるらしい。安倍内閣の一角公明党が総選挙準備に入る、に関連する最新のWeb情報を引用すると、
国民の生活が第一は人づくりにあり 2014/11/11 Tue 15:43
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