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卑弥呼の墓説「箸墓」と同じ構造 京都・向日の五塚原古墳

『京都府向日市埋蔵文化財センターは16日、同市寺戸町芝山にある3世紀半ば
 から後半とされる前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の前方部の構造が、
 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と一致したと
 発表した。同センターは「箸墓と同じ設計、築造技術に基づき、同時期に造られ
 た最古段階の大型前方後円墳と裏付けられた」としている。陵墓のため発掘調
 査ができない箸墓の、解明の手がかりになると期待されている』

『五塚原古墳は、全長91・2メートルで、箸墓の3分の1規模。2段で構成される
 古墳の前方部は、三味線の「ばち」型になっていることが判明した。側面の1段
 目と2段目の間に幅約1メートルのテラスのような平面があり、後円部とのくび
 れ部から前方部の端に向けてスロープ状にせり上がる。前方部と後円部をつな
 ぐくびれ部では途切れていた。この構造は「斜路状平坦面(しゃろじょうへいたん
 めん)」と呼ばれる。確認されたのは長さ約20メートルで、高低差は約2メートル
 と推定される。
 箸墓はレーザー照射による3次元(3D)測量で、斜路状平坦面が確認されてお
 り、同センターは、全国約5200基の前方後円墳と前方後方墳の中で、この構
 造を持つのは箸墓と五塚原だけとしている』



京都向日市の 五塚原(いつかはら)古墳
 小生。。以前にも取り上げたことがあるが
  全長91.2m。。卑弥呼墓のスケールに
   はピッタリである!箸墓では大き過ぎる!!



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【邪馬台国は日本に非ず】《日本古代史最大のプロパガンダ》<女王卑弥呼の墓=箸墓古墳>説を・・・【全否定してみる】



小生。。以前から
 卑弥呼の墓=箸墓古墳
  に非ず!という見解

   紹介しているが再掲
    したくなってきた

女王卑弥呼が
 統治したとされる
  邪馬台国は何処か


九州説と畿内説が
 大激論・対立してきた

纏向遺跡。。箸墓古墳
 が邪馬台国。。卑弥呼の墓
  という説の登場
により

畿内説が俄然有利になった経緯

しかしながら、
 箸墓古墳を卑弥呼墓
  とする根拠は、極めて貧弱


・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある
  卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
・後円部にある段構造が前方部で消失することから、
  前方部が後世に付け加えられた可能性があること
・大規模な古墳の中では、全国でももっとも
  早い時期に築造されたものであること


まず卑弥呼の円墳直径
 百余歩=約150m

日本の円墳で最大級は
 100m程度しかない
  この条件に見合う円墳は
   日本には存在しない


よって、最初の条件で既に
 卑弥呼の墓、邪馬台国ともに
  日本国ではない可能性が出現


ふたつ目の条件
後円部にある段構造が
 前方部で消失を以って、
  前方部が後世に増築された
との説は

無理やり
 箸墓古墳を卑弥呼墓に合致
  させようとしている可能性


そして三つ目の条件
大規模な古墳中、
 全国でもっとも
  早い時期に築造
との説も

卑弥呼の墓は百余歩
 150m近くあれば
  それで済むし、そもそも
   記述が誇張の可能性


九州はじめ日本全国の
 数ある村落のうちの一つ
  邪馬台国の統治者
それを卑弥呼と仮定すれば
 大規模古墳である必要は無い

とすれば。。


纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、
纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳
と数多く存在
そしてこの記事の
京都府向日市の国内最古級の前方後円墳
五塚原(いつかはら)古墳も条件を満たしてくる


小生。。3年近く前に
 既に邪馬台国は外国にあった
  可能性を示す説を紹介している


非常に唐突ながら。。。【邪馬台国】

邪馬台国

女王卑弥呼の国

日本の礎となった邪馬台国



長らくその邪馬台国の場所について
九州説 畿内説
が真っ向から対立

一時は九州説で決着したかにみえ

吉野ヶ里遺跡の発見で止めを刺した格好


高木彬光の小説『邪馬台国の謎』でも
九州説をとって決着させていたが



それが
奈良 桜井の纏向遺跡の発見で、
 俄然畿内説が息を吹き返し

箸墓古墳が卑弥呼の墓だとかで

畿内説で決まり!!という近年



小生。。。

纏向遺跡や箸墓古墳を

邪馬台国だけに縛り付けてしまって
良いのか、
と素人ながら思ってはいた。


そんな中
現在、ある古代中国原典専門
40年のベテランが著した
書物を読んでいる

その著者が言うには
”邪馬台国”は日本に在らず

日本の歴史界が魏志倭人伝
 の訳を間違えている!!


つまり倭に至る出発点の
 場所から間違えている!!

ということらしい。。。


その本たるや
最初から3分の2ぐらいは、
中国の省や郡の場所がズラリ


さすがに、退屈で
 殆ど全て読み飛ばした

そして、
邪馬台国=倭=倭国 
は 中国もしくは朝鮮半島の根元

現在の中華人民共和国内
か北朝鮮内
だという。。。


あまりきいた事が無い説

このまま読み進んでいて良いのか!

単なる異端者の説ではないのか!


と思っている時に


司馬遼太郎の短編集を買ってしまった

そこで見たものは!


司馬遼太郎は
「倭とか倭国、倭人は中国の
  とある場所であり。。
   倭人とか倭とか呼ばれた場所
    が中国内に存在していた」
らしい

と言っている

既に1970年代に、である


司馬遼太郎が言ったからではなく、
そういう説が古来存在していた訳である


では
何故。。日本の歴史学者や歴史専門家達が大挙して
魏志倭人伝の倭に至る出発点を
間違えて訳してしまったというのか

という疑問も残る。。誰か気付いたはず


例えば、英(米)語や他の欧州語
なら日本の学者も読み慣れている
しかし中国の原典には
馴染みが少ない
のは確かにある


もしも、原典の訳を誰か
が間違えてしまい。。。

慣れない原典をあたらずに、
その訳を元に議論が極めて永年白熱
それならば、如何に方角・距離を
あらゆる角度から検証し直しても

・・・・・半永久に倭には到達出来まい

まだ、極めて不確かながら

邪馬台国という概念を。。。

・・・日本の歴史から削除しなければならない


となれば歴史学史上でも群を抜く大事件である!!が。。。



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実際は、もう4年以上前の見解ではあるが
 日本考古学界。。弱小であり、戦前は勿論
  戦後も長らく、監視下。。皇国史観や国粋
   主義者等の目を気にして、いや今もだろう


邪馬台国や卑弥呼。。そして特に
 日本神話などは絶対に軽視出来ない
  唯一の国史。。史書であることを抜きに
   しても、顔色を窺わざるを得ないはずだ


歴史学界・考古学主流派
 邪馬台国畿内説学派の歴史家
  は、邪馬台国を纒向遺跡に。。
   箸墓古墳を卑弥呼墓に結び付け
    たがる傾向が強いのであろうが


どう考えても無理があり過ぎる訳だ



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≪日本の曙!《ヤマト勃興》に関する壮大な推理≫<卑弥呼・邪馬台国は日本ではない>【ヤマト王権は周辺強国により擁立された!!】


小生。。岡山には敏感に反応する
 何もかもに反応ではなく、古墳・遺跡
  古代。。超古代史に関連する事柄に
   である。。
その理由は、岡山=旧吉備

吉備国または吉備王国
 日本古代史のNO1キーマン
  の居城・拠点。。
神々の棲んだ
   偉大なるエリア!
と考えている

 
吉備。。吉備国。。
 古代日本の地方国家。現在の岡山県全域
  と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県
   西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)

    またがる、有力勢力の一つ。。いや、NO1!


吉備の代表的な古墳
であり、造山古墳群の主墳
 造山古墳 5世紀築造推定
  全長350m 全国4位の
   超巨大前方後円墳である


全国第1位大仙陵古墳(486m) 伝代16代仁徳天皇陵
2位誉田御廟山古墳(420m) 第15代応神天皇陵
3位上石津ミサンザイ古墳(360m) 第17代履中天皇陵


とそれぞれ宮内庁に比定され
 立ち入りが許されず、学術調査も
  行われていない
のに対して

造山古墳は、立ち入りが許される
 全国最大の超巨大古墳なのである


上位3位までの古墳と
 4位の造山古墳、いずれも
  5世紀の築造。。ヤマトは既に
   存在している訳であって。。


全国1位~3位の古墳が
 堺。。羽曳野、いわゆる河内平野

  に存在に比べて、岡山にある4位
   の造山古墳。。9位の作山古墳が
    存在することから。。
古代吉備には
   
ヤマト王権に対抗しうる、拮抗した
 強力な王権(吉備政権)があった
  との見解。。充分に頷ける学説!!


いや、そもそも吉備がヤマトを創った


全くその通り!邪馬台国畿内説学者
 幅を利かせる考古学・史学界主流派
  は、ヤマトと九州中心で考え過ぎである


鉄器・青銅器・土器
 恐らく、大陸・半島に近い
  北部九州に伝わった


つまり、弥生時代。。紀元前
 には、日本列島内の先進国は
  北部九州だったといえる訳だ


その技術が。。文化が
 次第に列島東部へ伝播
  九州から東北まで普及


この時代が下るにつれて
 紀元前後から西日本・山陰
  同盟が瀬戸内海ルートを
   押さえることにより。。
    また、その他生活文明


諸事情により
 力関係が、北部九州圧倒的
  から、西日本(吉備・出雲)
   へと移って行ったということか


そして、紀元3世紀
 ヤマト勃興となる訳だ


そのヤマト勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと


この辺りは、日本の曙
 しかし、ヤマト勃興へ至る
  紀元前後から3世紀の間に
   邪馬台国論争という邪魔が


何故なら、邪馬台国論争
 九州VS畿内、しかし!!
  本当に日本なのか!?


それ以上に重要なことは
 いわゆる邪馬台国時代より
  以前。。紀元2世紀前後なのか
  

西日本(吉備・出雲)が
 超強国として君臨したらしい
  ことも囁かれており。。  


そのインパクトは
 邪馬台国の比ではない
  と充分に考えられる。。
   

女王卑弥呼よりも
 吉備の大王の方が遥かに
  大物ではないのだろうか


邪馬台国を纏向遺跡や箸墓古墳と
 関連付けてしか考えられない畿内説学者
  考古学で幅を利かせる主流派の
   考え方や解釈では。。
まず到底
    この新しい事実を受け止めることは
     不可能であり。。誤った判断が
      横行しないことを祈るばかりである


九州が大陸からの技術導入
 などにより、最先進国だったが

  次第に主導権は、吉備や出雲
   瀬戸内海勢力に移り。。
ヤマト擁立

ここで気になるのは、巷いわれる
 邪馬台国。。そして女王卑弥呼とやら


奈良県桜井市
 箸墓古墳。。全長278m
  超巨大前方後円墳であるが
   さらに大きくなる可能性
    全長300mに達するのか


小生、付近一帯を
 巡回して回ったことがある
  巨大古墳が点在する近隣
   しかし、箸墓古墳の姿は
    他の古墳とは、全然違った


池。。ため池?とにかく水辺が
 そこに浮かぶ島のような趣で
  姿・形が美しかったのは当然
   風格のようなものを感じた訳で


辺り一体の桜井や天理
 の巨大古墳を従えるような
  そんな雰囲気すらあった。。


5世紀の超巨大古墳
 伝仁徳天皇陵や応神天皇陵
  などの古墳最盛期とは
   時代も意味合いも全く違う


箸墓古墳の被葬者を
 邪馬台国畿内説の学者連は
  卑弥呼をヤマト王権に直結
   させて、そのけん引役に
    見立てようと躍起になるが


小生。。絶対に違うと考える

考古学研究会のセミナー
 に参加したときのことである


岡山県。。古代旧吉備国
 2世紀の楯築遺跡に注目すれば
  

桜井の箸墓古墳は
 この楯築遺跡の特徴を色濃く継承
  吉備の王との繋がりを権力基盤に

   という学者の説明をきいた訳で

そのヤマト王権勃興には
 吉備・出雲・畿内・伊勢
  北陸・東海と。。御輿を
   担ぐように、だとのこと
    なのは既に解明済みである


小生。。想像するに
 初期ヤマト王権の長。。倭王
  つまり、呼称は無かったにせよ
   天皇は、御輿のように担いだ
    各強国の王たちには、気兼ね
     現在の国連事務総長のような
      そういう存在ではなかったか


各強国の。。今で言う米・欧・ロ
 とりわけ、超強国の米国的存在
  それは恐らく。。いや確実に
   吉備。。もしくは吉備王権勢力


箸墓古墳クラスの超巨大墳墓
 築造には、数百万人から1千万人
  動員して、築造期間20年ぐらい
   は必要だったのでは、という試算


卑弥呼墓。。百余歩・・150m未満
 シャーマン的存在の30余国。。このクニ
  は村落といって言い訳で、日本の王
   とは考え難く。。卑弥呼では絶対無理


初代倭王(天皇)でもそれは困難で
 もっと、大物だったと考えた方が良い


間違い無い!初代倭王を生み出した
 超古代版治天の君。。ホントの倭王
  吉備の大王と考えた方が自然である


九州から、吉備・出雲に主導権
 その後。。吉備・出雲・畿内・近江
  伊勢・北陸・東海・そして九州勢力もか


各強国首長たちが御輿担ぐように
 擁立したのが、ヤマト王権だとすれば


例えば。。さらに想像を
 膨らませていけば。。
欠史8代
  
古事記・日本書紀といういわゆる
 日本神話を基礎概念に、系譜は
  存在するがその事績が記されない

   第2代綏靖天皇から第9代開化天皇
    までの8人の天皇、あるいはその時代


初代神武天皇と10代崇神天皇
 を同一人物と断定した上で。。


史学界通説・考古学主流
 が居なかった!とする欠史8代
  2代から9代までの諸天皇あるいは
   ヤマト王権の各倭王たち。。
もしや

各強国首長と関係のある人物!
 もしくは、各首長から擁立され
  その後の10代以降の各天皇
   とは血縁関係がない重要人物?


また、さらには

ヤマト擁立の各強国首長の
 後裔・末裔・親族子孫は。。畿内
  ヤマト周辺で王権に寄り添うように
   暮らした可能性を追究して良い筈だ



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箸墓古墳。。宮内庁からは
 宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として
  第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓
   に治定されている

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇
皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚伝承で
知られる (いずれもウィキペディアより)


むしろこれは、大きなヒントである
 10代崇伸天皇の前。。第2代~9代
  いわゆる欠史八代とされる大王たちは
   存在した!!と考え。。まだ大王が
    日本国の王としての地歩固まる遥か昔


当然、皇位の世襲などは夢のまた夢。。。



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≪超古代日本列島。。『九州』から、【出雲・吉備】で始まった!≫<邪馬台国・卑弥呼は一度概念から除去すべき>【ヤマト王権も吉備・出雲らの強国が創った!】


日本神話も、無視すれば文献が無く
 なってしまうが。。参考程度にすべき


そして、邪馬台国・卑弥呼のことは
 日本列島超古代の概念から除去必要


小生の理解では。。北部九州は
 確かに国内先進国だったが。。
  

主導権は、弥生時代のある時期
 から。。
吉備・出雲をはじめと
  して北陸地方にも移り始めており

   大陸から直接技術や材料を導入する
    力を持ち始めていたと漠然と感じて
     訳なのであるが。。


ならば。。邪馬台国も中小の勢力
 に入ることにはならないかね?

邪馬台国が日本列島を代表する
 首都であったという解釈が間違っている


吉備・出雲。。ひょっとして九州も
 近江・越(北陸)・東海・伊勢・畿内

 
各強国が神輿を担ぐように
 擁立勃興したのがヤマト王権であり


ヤマトの王。。倭王・大王は、長い間
 擁立してもらった強国各帝王たちに
  遠慮しなければならなかったのでは?

 
よって、初代倭王から
 数代。。欠史八代含め10代まで?いや
  それともそれ以降、10数代大王(天皇)まで
   世襲を許されなかったのは充分に頷ける話


歴史学界主流派から。。その手の
 話が出てきたのを聞いたことが無い


ヤマト王権が、強力な指導力を発揮
 し始めるのも。。歴史学界主流派が
  述べる見解よりもすっと後年だった


と考えて問題無いと思うのである



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歴史学界主流派が、どうしても
 邪馬台国・卑弥呼を日本列島のこと
  に結び付けたいのであるならば。。


箸墓古墳はじめ300m級を超える
 超巨大古墳は大き過ぎるのであって


京都向日市の 五塚原古墳
 全長91.2m。。卑弥呼墓に
   はピッタリなのであるとともに。。

もしくは、畿内他の。。時代からすれば
 中国地方・山陰地方の中小古墳が
  その墳墓として相応しいと考えるのだ
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